キャッチボール
息子とのキャッチボール
何年ぶりでしょう。
21歳の息子と久しぶりに浜でキャッチボールをしてきました。
とってもいい気候で気持ちよかったです。^_^
こういう時間をこういうのんびりとした場所で過ごしていると感じるのですが、親子の間でするキャッチボールというのは、とっても意味のあるコミュニケーションなんだと実感するんですね。
「息子も大きくなったな」
そして「僕も歳だな。。。」とか 笑
「いやいやまだまだ頑張らないとな!」
とか思うわけですよ。
映画『フィールド・オブ・ドリームス』のラスト・シーンで、ケビン・コスナー扮する主人公レイ・キンセラが、若かった頃の自分の父親とするキャッチ・ボール。
映画としてはとても地味なラスト・シーン。
父親の想い。
息子の想い。
それぞれの静かな想いの交錯や交歓に想いが及んで、僕は涙してしまうシーンです。
もう30年以上も前の映画なんですね。
人の後悔と、果てしない想い
原作は W・P・キンセラの『シューレス・ジョー』。
トウモロコシ畑にそよぐ風のように柔らかくて眩しい、そして美しくて優しい小説です。
もちろん映画のラスト・シーンは小説には登場しません。
それでも、メジャー・リーグに挑戦して夢破れたことのある、喧嘩別れして分かり合えないまま死別した父の想いを確かめ成就させる過程は、映画よりも重要な根幹テーマとして描かれています。
叶えられなかった夢。
認められなかった想い。
呑み込んで来た後悔。
人には誰でもそういうことがあるものです。
その時その時を一生懸命に生きてきたはず。
その時その時に最善だろうとして選んだはずだった道。
でも今に繋がる全てのことを肯定して生きてゆくには、昔の自分はあまりにも稚拙だったり不遜だったりするものです。
後悔や諦めが必ずつきまとうから、今をちゃんと生きて行こうと人は想うのだと感じるのですね。
だからこそ、自分を信じて進んだ道の路上で、自分の能力を否定されたり、認めてもらえる機会を活かせなかったりした人生の岐路での後悔を、大きな力や想い、あるいは大いなる時間が関与していたとしても、それが成就する瞬間の美しさと切なさは圧倒的な感動を生み出すものです。
この物語は、いわばそういう想いに溢れた物語だと言えるのですね。
映画の中でレイと一緒に、もつれた夢の糸をことほぐ重要な人物・テレンスマン。
彼は原作の中では J・D・サリンジャー本人として描かれています。
著者キンセラの夢(主人公には自分の姓を使用しています)と、キンセラのサリンジャーへの想い。
失意のうちに生涯を閉じた天才・シューレス"ジョー"ジャクソンの蘇りを軸に、アメリカという国が依存してきた(あるいは守ってきた)野球というスポーツへの大きな愛と、野球とともにアメリカ人の心の深い場所に立ち続けるサリンジャーという象徴への讃歌。
そして、誰もが抱える後悔と、親子の間に横たわる深い想いを描いた原作は
ほんとうにまるで「夢のような」物語となりました。
キャッチボールの持つ意味
公開当時は僕はまだ奥さんにも出会ってませんでした。
まだまだ夢の道中を彷徨う20代の若造だったわけです。
親になり、主人公ほどの年齢になり、それなりに夢の過程を歩んだ経験を持った現在。
息子や娘と野球やソフトボールでも繋がっていた今の僕には、この物語の美しさと眩しさは増すばかりです。
美しい映画。
優しい小説。
トウモロコシ畑。
そして野球。
地ならしをするスチームローラーのように、変わり続けてきたアメリカにおいて、唯一変わらなかったもの。
それが野球だと物語は語ります。
その野球によって保たれる良心を描いた夢のような物語。
父と子の関係において、キャッチ・ボールの持つ意味はとても大きいことを再認識させてくれる映画なんですよね。
僕よりも背が高くなったトウモロコシ畑を見ると、今でも必ず、その向こうに「夢の世界」がある気がするのです。
そして、我が家族に想いを馳せるとね。笑
これまでも、息子も娘も、キャッチボールをやって育ててきたのだから、たまには僕ら家族には、まだまだ必要な時間なんだなと、浜辺での冒頭シーンに繋がるわけです。
そして、僕が死んだのち、息子も娘も享受をまっとうしたら、またキャッチボールをしたいなと思うのですね。笑
忘れてはならないのが、この映画でムーンライト・グラハムを演じた名優・バート・ランカスター。
この映画が彼の出演遺作映画となりましたね。
今頃彼は、あのトウモロコシ畑の向こうでなにをしてるのでしょう?
彼が演じた“ムーンライト”アーチボルド・ライト・グラハムは実在のプロ野球選手でした。
もしかしたら二人は向こうで会って、キャッチボールをしているのかも知れませんね。
今更ですが、お二人のご冥福をお祈りいたします。