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養分

「どんな養分を摂るかが、人にとっても大切で、それが作品に出る。」

愛してやまない&リスペクトしている友人(先輩)であり、書家のはっちさんがそうおっしゃって、すぐさま「メモっていいですか?」と断りを入れ、謎に「養分」とだけ記した。言葉を忘れたくなかっただけ。言葉を思い出せれば、感じたことは思い出せそうだったから。

この話になったのは、「写真や映像を仕事にしている身として、自分は独学である一方、アカデミックに学んで、師事したり、スタジオで修行したりする人たちもいる。ベースに違いがあったり、超えられない壁があるのではないか」という問いをしたのがきっかけだった。

「どちらがいいという話ではなく、養分が違うだけ」とはっちさんは答えた。

この養分という表現、心底気に入ってしまった。人間も生き物であることを再認識する。ハッとする。当たり前なのだが。

どんな養分を摂取するかによって、人のアウトプットは変わる。いい養分を摂っていたら強い花が咲く。その花は香る。何十年も、何百年も。そんな話をした。

写真やアート、工芸、書でもそう。いい養分を摂ってきた人の作品は、覇気がある。香る。

養分の摂り方はたくさんある。積み重ねもある。養分自体の良さももちろん大切だが、多様な摂り方に鍵がある気がする。何を視て、何を嗅ぎ、何を触って、何を味わい、何を聴くか。これが単一的だと、出方も単一的になる。

偏食だと、成長が偏ったり、不足してしまう要素があったりするのと同じように。

数年前に「本を読まないから、思考が浅はかだ」と言われたことがあった。果たしてそうだろうかと思いつつ、言われたことを受け止め、自分は浅いのではないかと疑うこともあった。自分自身およびスタンスの否定に近かった。日々の営みの中に読書がない、故に人間として浅はかであるというのは、普段の生き方では深みを得られないということではないか、などと考えた。

だが今日、養分の話を聞いて、救われた気がする。自分は違う方法でたくさん養分を摂ってきたではないか。きっと浅はかではない。そしてこれからもっと深くなっていけるのではないか。

新しい発見は、自分を肯定する理由になりうる。だから自分は人の話を聞き、それを感じ、自己を肯定し続けられる理由を探しているのかもしれない。

普段自分を否定しているのかと言われるとそうではないが、肯定し続けられているわけでもない。人と話して、新しさに出会い、現在地を認識し、自己を肯定する。そんな経過観察をしているのかもしれない。それが自分にとって人に会うこと、出会うことであり、養分なのかもしれない。

なるほどそこに苦はないわけだ。己のためになるのだから。

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