我愛臺灣「日本の植民地政策」
【はじめに】
人は好きなことや好きなもの、そして特に好きな人のことは少しでも多く知りたいと思います。
当然ながら私もそう思い台湾の歴史について少し勉強してみました。
特に日本人が台湾を知る上で日本が統治していた史実を避けては通れません。
日本の植民地政策は、日清戦争で日本が勝利してから始まりました。
下関条約により、台湾を獲得し、その後、朝鮮半島を統治し、南洋群島、東南アジアの国々をも支配下に収めて行ったのです。
日本は有色人種の国家で欧米の植民地にならなかった数少ない国であり、更に欧米列強のように植民地政策を進めた唯一の国でした。
そのため台湾の日本統治を考察する上で世界各国の植民地政策を知ることも必要不可欠なのです。
【欧米列強の植民地政策】
欧米の植民地政策と日本の植民地政策とは明らかに違うものでした。
端的に言えば、欧米の国々が行ってきた植民地政策とは、殺戮と強奪で植民地とそこに住む人々には、何の利益ももたらすことはなく日本の植民地政策はとは程遠い政策だったのです。
欧米の植民地政策は15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた、大航海時代に始まります。
欧米の植民地主義には幾つものファクターがありますが、政策には人種差別が顕著に見られるのです。
肌の色で差別すること自体、決して許されることではないのですが、植民地政策は人間対人間の差別という次元ではなく、する側とされる側では、人と動物、あるいはそれ以上の神をも恐れぬ差別だったのです。
ー南アメリカー
アステカ帝国やインカ帝国といった先住民の大帝国を滅ぼしのはスペインでした。
彼らの植民地政策は想像に絶するもので現地のインディオは人と見なさなかったのです。
例えば、現地のインディオ達は初めてやって来たスペイン人達を温かく迎え、もてなしたにも拘わらずスペイン人はインディオ達を騙し、火あぶりにし、更には刺し殺して犬に食わせたというのです。
そのスペイン人がインディオに対する残虐行為は止まることを知らず、誰が剣で人間を真っ二つに斬れるかとか、誰が一撃で首を斬り落とせるかとか、誰が最初に内臓を破裂させることができるかなど、殺戮をレジャーとするとても常人とは思えないほどだったのです。
また、あるものは生きたまま鼻や唇など顔を削ぎ落したり、絞首台に吊し火あぶりにしたりし、それは女子供、赤ん坊であろうと容赦しませんでした。
それらの残虐行為によって約40年間の間に犠牲となったインディオは1200万人以上と言われていて15世紀末、スペイン人が初めて入植した西インドの島エスパニョーラ島においては当時、約300万人暮らしていたインディオは200人ぐらいしか残らず絶滅に近いものでした。
ーインドネシアー
スペイン、ポルトガルの次に台頭してきたのがオランダ、フランスです。
オランダは350年もの間インドネシアを植民地にして現地の人を完全な奴隷としてきました。
強制労働によって香辛料やコーヒー、石油などの資源を大量に奪ったのです。
この強奪した利益は当時のオランダの国家収入の1/3にのぼったのです。
しかし、インドネシアでは現地人による稲作を禁止していたために飢餓が起こり人口33万人の町が12万人にまで減少したとも言われています。
また、オランダは現地の人に教育を行わない『愚民化政策』を進めました。
これは反乱をさせないための政策で、特に300ある方言を統一すること、いわゆる共通語を持つことをさせませんでした。
ーベトナム・カンボジアー
フランスは第二次世界大戦の後まで宗主国として居座り、現地の人をオランダの植民地と同様に土地を奪い、奴隷として扱ってきました。
その間にフランスが殺害したインドシナの人々の数は100万人にのぼるとされています。
ーインド・中国ー
世界で最も多くの植民地を持っていたのは大英帝国イギリスでした。
その中でもインドでは大飢饉が起き、1877年、南インドでは500万人、1943年、ベンガル地方だけで340万人が死亡したとされています。
また当時、清帝国であった中国に対して茶の貿易で赤字を出していたイギリスはその貿易赤字を埋めるために、清に対しアヘン(麻薬)を売り付け清の国内を混乱させたのです。
19世紀末、中国人男性の1/4の約5000万人がアヘン中毒者だったと言われいます。
そこで、アヘンを厳しく取り締まった清に対してイギリスはアヘン戦争を仕掛け香港を奪ったのです。
ーフィリピンー
スペインとの戦争に勝利したアメリカはフィリピンを植民地にします。
フィリピン共和国の建国を認めないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗しました。
その際に60万人(米上院公聴会では20万人と報告)のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺されたのでした。
ーアフリカー
アフリカの北部では黒人を奴隷狩りして、アメリカに送り出だしていましたが、アフリカ内部の探検が盛んになれば、そこに暮らす民族を無視した国境を
勝手に線引きし全て欧米各国の植民地として統治してしまいました。
そして、現在に至るアフリカの民族紛争・内乱の原因を作り、いまだにアフリカの人々を苦しめているのです。
ーオセアニアー
オーストラリアでは20世紀に入っても白人のレジャーとして日曜日にアボリジニ(原住民)狩りをしていたり、太平洋の2万にも及ぶ島々では白人達によって片っ端から殺戮と略奪によって植民地とされたりしたのでした。
このように白人は人間の所業とは思えない行為を世界各国の有色人種に行ってきたのですが、これはほんの一部に過ぎません。
【日本が台湾でしたこと】
まず日本が最初に植民地にした台湾で行ったことは衛生面と医療の改善でした。
当時の台湾の衛生状態は決して良いものではなく疫病も発生するような状況だったからです。
その結果、後には日本本土と変わらないほど台湾の衛生、医療は改善させています。
当然、道路、鉄道、水道、電気などのインフラの整備も、日本国内と大差ないほどに進みました。
これは、台湾だけではなく、中国の属国であった朝鮮半島でも同じことが言えます。
更に日本は現地の教育の整備にも注力し学校を建て、日本人としての教育を行い識字率も格段にアップさせました。
台湾、朝鮮を始め、周辺諸国の人々に日本国内と同様の教育を受けさせ、その最たる例は帝国大学の設置でした。
北海道帝国大学に次ぐ6番目の帝国大学として、ソウルに京城帝国大学、それに続いて7番目の帝国大学を台北に設置していて、これは大阪帝国大学と名古屋帝国よりも早い設置なのです。
そして、当時の全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)においては、朝鮮、満州、台湾からも代表校が甲子園に一堂に会し熱戦を繰り広げ1931年、第17回の大会においては、台湾代表の嘉義農林が初出場で準優勝に輝いています。
この史実をもとに2014年台湾で『KANO』というタイトルで映画化されていて日本でも公開されました。
更にもう一つ欧米の植民地政策とは明らかに違うこととしては、日本は奴隷を作らず、もちろん強制収容所なども設置していません。
当然のことながら、欧米の国々の植民地政策のような手かせ足かせなどは使わず、手足を切り落としたりもせず、産物や資源の強奪したりすることもしなかった。
そして第二次世界時において過酷な戦地では多くの餓死による戦死者を出したにも拘わらず統治下の人々には敗戦の日まで餓死者を出していないのです。
このようなことから、欧米の国々がしてきた恐ろしい植民地政策と日本の植民地政策とは違うということは歴然としています。
しかし、このような日本の植民地政策に対して現地では反対する運動や勢力があったのも事実です。
日本の統治が始まった時には14000人の台湾人が死亡し、1902年まで続いた坑日運動では更に1万人が死亡しています。
【日本統治時代の終焉】
日本語教育などにより現地の人の知識水準や学問のレベルを上げたことは間違いない事実ですが台湾人を始めアジアの人々を全て日本人にしようとする計画の上に成り立っていたのが大東亜共栄圏の建設とも言えます。
そんな日本の植民地政策は日本の敗戦と共に終焉を迎え台湾人は日本人から台湾人に戻りました。
また、それは第二次世界大戦で日本の統治下であったアジア諸国の独立であると同時に、かつての欧米の植民地であり、欧米列強の植民地支配の時代の終焉を告げることでもありました。
しかし、台湾人の本当の悲劇は日本人の去った後に大陸からやってくる国民党によって始まるのです。
1945年の第二次世界大戦後、連合国に降伏した日本軍の武装解除のために、蒋介石率いる中華民国・南京国民政府軍が1945年10月17日に約1万2,000人と官吏200余人が米軍の艦船から台湾に上陸すると国民党軍兵士による婦女暴行や強盗事件が頻発するようになりました。
また官吏の腐敗ぶりは目に余るものがあり、国民党軍の占領後間もないころから、元から台湾に住む台湾人(本省人)は、日本人はうるさく吠えても番犬として役立つが、中国人は貪欲で汚いという意味で「犬が去って、豚が来た」と新たな支配者国民党を揶揄したのです。
そんな台湾において蒋介石の国民党による独裁の恐怖政治が続き1949年以降1987年に解除するまで、38年間もの長期にわたって20世紀以降、世界最長の長期戒厳令が敷かれたのです。
【まとめ】
国家の政策には功罪があるのは当然で日本の植民地政策にもそれはあり、様々な見解があるのも当然のことです。
ただ現在の日本においての問題は、欧米の植民地主義(政策)で白人が実際に行ってきたことが、歴史認識をする上で重要であるにも拘わらず、学校では教えていないという現実です。
そのため残念ながら、いまだに日本の植民地政策を理解が出来ていない人、あるいは誤解や故意に解釈を歪曲している人が日本国内にも、周辺諸国にもたくさんいるのです。
しかし、少なくとも親日国である台湾には日本の統治時代に日本人が台湾で行ったことに理解と感謝してくれている台湾人がたくさんいるのも現実なのです。