愛とは不合理
「行為から合理性を差し引いて残った不合理性が愛」
本当にそうだよなと思う。そう考えると「生理的に無理」というような嫌悪も、同じ部類なのかなとも思う。
一方で、実はそれらの感情は非常に合理的理由から、遺伝子レベルでプログラムされているのかなとも思う。
愛は子孫を残し、それを繋いでいくために非常に合理的に不合理性を残した例。
嫌悪も同じで、生存競争に勝ち抜くために、たとえばG様への嫌悪などは感染症を防ぐために合理的に組まれた不合理性なんだと思う。
大昔、愛という言葉はなかっったと聞いた事がある。「愛する」という動詞しかなかったらしい。
ここでいう「行為 - 合理性 = 不合理性 = 愛」の示す愛は、行為が残っているとも思う。
つまり行為としての愛なので、愛するということだと思う。
最近読んでいる、「時間は存在しない」で書かれている、時空間の概念とも似ている。絶対的な何もない「空間」や「時間」はあり得ないと。
そう、つまり何か別のものがあって、それとの関係性を認識した時、初めて「空間」や「時間」が現実世界に立ち上がる。
たとえば、「あなたはどこにいますか?」と、空間=場所を聞いた時には、「家です」と答える。これは「あなた」の周辺にあるものを指し示すことで、間接的に「あなたの場所」を指し示している。つまり、関係性の中でしか成り立たない。
愛も同じで、関係性の中でしか成り立たないと思う。つまり、愛というものは人間の頭の中にしかなくて、現実世界では「愛する」という行為しかない。
世界は贈与でできているを読んで思った事でした。