自力について探った先にあったもの。
最近、「自力」についてよく考えており。
なんでわたしはこれほどまでに自分ひとりでで何かを成さねばならないと思い込んでいるんやろ?
自力へのこだわりが自分を苦しめていることは知っていて。
それでも手放すことができないのはなんで?
そこを掘り下げていったとき、自分の中にある根深い思い込みに氣がついて愕然とした。
わたしにとって自力とは、「苦労して自分だけの力で人生を切り開いていくこと」という定義があった。
ここでポイントなのが「苦労して」という部分だ。
「楽に自分だけの力で人生を切り開いていく」こともできるはずなのに、わざわざ自分で苦労する方を選んでる笑。
なぜに?
そこには「苦労は価値のあるもの」「人生苦労してなんぼ」というもうひとつの思い込みが隠されていた。
これは親や社会から植えつけられた概念だ。
「苦労は買ってでもしろ」というセリフを父がよく口にしていたのを思い出す。
この観念があることにはわたしはずいぶん前から氣づいていたけれど、これも自力への執着同様ずっと手放せないでいた。
なんでや?
なんでそんなしんどいもん、いつまでも持ってんねん?
理由は、ひとつ。
「苦労しなければ欲しいものは手に入らない」という思い込みがあるからだ。
これも土の時代の社会全体からの刷り込みのひとつで、多くの人たちがこの概念とともに生きているのではないだろうか。
それらの洗脳によりわたし中には、自力の奥に「苦労」があり、「苦労」の奥に「価値」を置いていた。
つまりわたしにとって自力とは苦労であり、苦しむことに価値があり、苦行をしないと望むものは手に入れられない、という複雑な方程式が出来上がっていたのだ。
だからどこまでも自力にこだわり、「自分でなんとかしなくちゃ!」と躍起になっていたのだろう。
なんてこった、、、。
でもこれって土の時代を生きてきた現代人あるあるではなかろうか?
沢山の人がこんな思いを抱えて生きていて、でもそろそろ「それっておかしくね?」「もっとカンタンにラクに生きれるんじゃね?」と氣づき始めているのが風の時代に切り替わった今なのでは?と思ったりしている。
大きな時代の流れが人々の意識に氣づきを促しているのが今というときなのだと。
そしてここからが肝心で。
そんな幾重にも重なった思い込みに氣づき、それを手放したいと望んだとき大切になるのが、「色んな思い込みを抱えているのはわたしだ」という勘違いに氣づくことだと思う。
それを持っているのは「ホントのわたし」ではない。
その思い込みで苦しんでいるのは、わたしがわたしだと勘違いしている「自我のわたし」だということ。
わたしたちは自我のプログラミングによって動かされているアバターのような存在だ。
ロールプレイングゲームで例えると、ゲームのコントローラーを持ってゲームをしている存在がホントのわたしたちで、テレビ画面の中にいるゲームのキャラクター(アバター)はわたしたちではない。
けれど自我がホントのわたしたちに覆いかぶさってしまったために「自我(キャラクター/アバター)=自分」だと勘違いしてしまっている。
(人生という)ゲームに夢中になり過ぎてテレビの中に入り込み、キャラ(アバター)目線と同化してしまっているので、目の前に現れる出来事(ゲームでいうところの敵や障害物)に一喜一憂してしまう。
それが現実世界の3次元で起こっていること。
自我の解体が進み、自分がゲームのプレイヤーであることに氣づいている人たちが悟った覚者と言われる人たちだ。
わたしたちが保持している思い込みや観念は、ゲームのキャラクターにセッティングされたプログラミングであるということ。
ホントのわたしたちに観念や思い込みはない。
この視点を持っているだけで「どうにかして思い込みを手放さなくちゃ」とか「どうやったら手放せるんだろう?」とか「手放したつもりなのにまだ持ってた」などという憂いがなくなる。
だってここに出てきてる思考はすべてゲームのキャラ目線でしか出てこないものだから。
逆にこの次元で何とかしようとすることは(なんとかなったとて)、それはアバターの世界(テレビ画面の中)での話で根源的な解決ではない。
だから何とかしようとしなくていい。
むしろほっておいた方がいい。
なぜならなんとかしようとすることは「自力」を働かせることになり、「自我=自分」という認識を無意識のうちに固めてしまうことになるからだ。
視点を変える。
プレイヤー目線になる。
ただそれだけでフッと軽くなるのを感じた。
「なんとかせねば」という自力を紐解いていった先にあった「なんともしなくていい」というこたえ。
これまで自力で問題解決をしてきたわたしにとってそれは、肩透かしをくらったような不安定さを感じつつ、でもそっちでいいんだという思いもあるのが現在地だ。
きっとこの揺らぎは自我の解体が進み、ホントの自分に近づくほどに落ち着いていくのだろう。
少しづつ、でもちゃんと進んでる。
そんなことに氣づいた自力案件だった。
今日も読んでくださりありがとうございます。
また書きます。
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