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神さまが私に見せたかったもの。
先日友人3人と食事会をしたときのこと。
会の途中あたりから私の知らない方の話になりました。
彼女たちは共通の習い事をしていてその教室の先生についての話題になったのです。
Aちゃん:「あの先生ちょー忘れっぽいよなぁ。この間ブチギレしそうになってな…(その内容について話す)。前から何回も同じようなことがあってほんま腹立つわ」
Bちゃん:「わかるー。ええ加減なとこあるよね」
Cちゃん:(ただ笑ってその話を聞いている)。
Bちゃん:「先生のアバウトさが合わんって辞めた人もいるねんて」
Aちゃん:「やっぱり!」
Cちゃん:「まぁそれも含めて先生やから(笑)」
私はその先生にお会いしたことがないので、彼女たちの話を聞きながら「どんな先生なんやろ?」と想像を楽しんでいたのですが、食事会が終わって一人帰り道にふと思ったんです。
私はなぜあの場で彼女たちの話を聞くことになったのだろう?と。
結構長い時間その話題だったことがそれを思わせました。
神さまは、彼女たちの姿を私に見せることで何に氣づかせたかったのだろう?と。
で、ピン!ときたんです。
あーやっぱりこの世はひとりひと宇宙でできていて、それぞれがかけている眼鏡で見えている現実も違うんだ、ということを再認識させたがっているんだなと。
Aちゃんは「先生は忘れっぽい。それが私を苛立たせる」という眼鏡をかけている➡【だから先生のやることなすことに腹が立つ】という現実を創りだしている。
Bちゃんは「先生のことをいい加減だと思っている。けれどAちゃんほど氣にしていない」という眼鏡をかけている➡【だから先生の存在がBちゃんの世界に及ぼす影響は少ない】という現実を創りだしている。
Cちゃんは「先生の忘れっぽいところも先生の一部。それでいい」という眼鏡をかけている➡【だから先生の言動はまったく氣にならない】という現実を創りだしている。
なるほどなぁ。
ひとりの人に対してこれだけ見る目が違うんや。
それを目の当たりにした出来事でした。
誰がいい、悪いではなく、みなそれぞれの眼鏡をかけている。
その事実をしっかり把握せよ、と。
そしてだからこそ神様は
【いつも事実だけを見るように】
ということを教えたかったんだなぁと感じました。
Aちゃんだけに先生のことを聞いていたら、私は先生を「忘れっぽい腹立たせる人」、Bちゃんから聞いていたら「いい加減な人」、Cちゃんから聞いていたら「ただの習い事の先生」と認定していたでしょう。
でもそれは彼女たちの眼鏡から見た先生であり、事実ではない。
そこを混同してはいかんよ、ということです。
【いつもニュートラルであれ】
そう言いたかったんでしょうね。
私たちは日常生活の中でみながそれぞれオリジナルの眼鏡をかけている、ということを忘れてしまいがちです。
特に家族や友人など近しい存在になればなるほど無意識に「相手も自分と同じ価値観を持っている」という前提で接してしまう。
自分と相手を同一化してしまうんですね。
そうなると価値観の押しつけであったり、依存になったり、おかしなことになってしまう。
私はずっとそれをやってきました。
だから家族との境界線を引くのに時間がかかった。
その道のりの途中では、境界線を引くことが「人として冷たいんじゃないか」ということを思ったりもしました。
それはどれだけ自分を犠牲にして相手の要望に応えようとしていたか、それが「愛」だと勘違いしていたか、ということの表れでもありました。
自分がちゃんと自分の世界の中心にいなかった。
今回のメッセージは、人はみなオリジナルの眼鏡をかけている。
それを忘れず「ただ私であること」「ただ私をやること」に集中するときがきてるんだな、と感じたのでした。
今日も読みに来てくださり、ありがとうございます。
また書きます。