自我の解体。
前回の記事で「多くの人の目覚めが始まっている」と書いたけれど、
では「目覚め」とは一体何なのか?
わたしが考えるそれは、「ホントの自分に還ること」。
別の言い方をすると「自我の解体」ではないかと。
わたしたちの本質は、思考でもなく、感情でもなく、身体でもない。
これらのことに氣づいている意識がわたしたちのホントの姿だ。
けれど自我が芽生えたときから、思考することを覚え、目の前の出来事に感情が動き、身体をもってそれらを体験している人そのものが「自分」だと勘違いしている。
なぜそういった勘違い起きるのか?
それは「自我」を自分だと思い込んでいるからだ。
では「自我」とはなんぞや?
わたしはこれまで「自我」とは、「自分と他者とを分ける意識」ぐらいの知識しかなかったのだけれど、先日ある学びの機会を得て「自我」への理解が深まったのでシェアしてみようと思う。
「自我」とは家族や社会の中で育つうちに「あなたはこういう人ね」と外の情報により刷り込まれたプログラミングのこと。
生まれたての赤ちゃんに自我はない。
自分と自分以外を分ける認識がなく、全てはつながっている。
いわゆる「ワンネス」の意識が赤ちゃんだ。
だからあんなに生命力にあふれ、すべてのものからゆるされている感じを受けるのだろう。
が、お母さんのおっぱいを飲んで美味しいと感じ、お父さんに抱っこされて温かいと感じ、兄弟と遊んで楽しいと感じ、、、と他者と触れ合う中で自分とは別の人がいることを認知していく。
幼稚園に行けばもっと様々な人たちがいて、その中で社会ルールを教え込まれ、他者と上手く関わっていくために思考を使うようになる。
世間の常識が「正」、そこから外れることは「悪」とされ、次第にホントの自分の思いを抑え込むようになる。
外から刷り込まれた善悪の観念によって出来上がったイメージが自分だと思い込んでしまう。
自我の形成は5~6歳で完了すると言われており、それはイコール「偽りの自己」のプログラミングが完了した証でもある。
なんと恐ろしい!
小学校入学時にはもうすでにホントの自分とはかけ離れたところから人生をスタートさせていることになるのだ。
そして多くの人がそのことを疑う余地もなく日々を過ごしている。
みんな自分ではない「偽りの自分/自我のプログラミング」をホントの自分だと勘違いして生きているのだ。
そこに苦しさが伴わなければそのまま人生を全うするのだろうけど、そうではない人たち、「いつもなんか苦しい」とか「何かがおかしい」と生きづらさを感じている人たちが人生のどこかで「この苦しさはどこから来ているのだろう?」と探求を始めるのが目覚めへの第一歩なのだと思う。
そしてここからが個人的に深く共感した部分なのだけれど、自我には
・恐れ
・不安
・罪悪感
・不足感
がもれなくセットでプログラミングされているという点だ。
わたし自身、幼い頃からコワがりで、いつも不安で一杯だった。
何かにつけて「自分が悪いのではないか」という罪悪感を持ち、そしていつもどこか満たされない。
これは育った家庭環境やHSP氣質によるものだとずっと思ってきたけれど、そうじゃなかった。
プログラミングの標準装備としてセッティングされたそれらが、環境や氣質でより強化されただけなのだ。
これまで心のことを学んできて、ある程度ラクになった感じはあったけれど、根底にある恐れや不安、不足感をぬぐいさることができないでいた。
この心もとない感じはいつになったらなくなるの?
もっとゆるぎない安心感がほしい。
ずっとそんな思いがあった。
そしてこの情報を得たときに「だからか!」と納得したのだった。
ではこのプログラミングから抜け、ホントの自分に還るにはどうすればいいか?
それは「自我の解体」しかない。
思考と一体化している「偽りの自分」から距離を置くのだ。
それには瞑想や呼吸法がよいのだけれど、自我はそれを嫌う。
なぜなら自我は「今ここ」にはいられないから。
今この瞬間に意識を向けられると自我は自分が消えてなくなってしまうのを知っていて、それを邪魔するために瞑想や呼吸に集中している最中に色んな思考を飛ばしてくる。
多くの人が「今に集中するのが苦手」というのはこのためだ。
でもだからといって諦めてしまっては自我の思うツボなわけで。
ここはいくら知識を習得したところで解体は起きない。
地道にでも「今ここ」にいられる感覚を養うしかないのだ。
今年に入ってから自我のプログラミング解体に向けて軽い運動と呼吸法を始めている。
身体の感覚とつながり直し、より深くホントの自分とつながること。
今年はここを目標にゆるく楽しみながらやっていけたらな、と思っている。
今日も読んでくださりありがとうございます。
また書きます。