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自我の解体新書/恐れによる自動反応。
結局のところ人間関係におけるねじれ解消は「赦し」だ。
どうしても赦せないあの人への思い。
裏切られた、責められた、奪われた、騙された、、、。
相手がどうでもよい人ならば関係を断ち切り、THE ENDにできるけど、それが家族であった場合、とても苦しむ。
わたしもそうだった。
それまで大切だった家族がある日突然「敵」になった。
数年間家族と会わない時間があり、辛くて苦しくて悲しくて、世界から取り残されてポツンとひとりぼっちになった氣分だった。
そのころから心の学びを始め、セラピーを受け、セッションを受け、色々やりながら時間をかけて少しづつ相手を「赦す」ことができるようになった。
これまでの時間を振り返って今思うのは、
わたしが心のねじれを解消できたのは、自分の持っていた「観念/思い込み」に氣づいたからだった。
父に対しては「わがままで自分勝手」は悪という観念を。
母には「自己犠牲」が愛だという観念を。
妹には「保身」はずるくて汚いという観念を。
これらは全部はわたしが持っていた思い込みで、それがフィルターとなって相手を「敵」に見せていただけだった。
相手は最初から敵でも味方でもなかったのだ。
家族間に発生した摩擦は、その観念に氣づかせ、それを落とし、ホントの自分に還るために自分で起こした出来事だった。
相手を赦すことは自分を赦すこと。
結局人は自分の映しでしかない。
ここまでの理解は起きていたのだけれど、最近自我のプログラミングについて知ってからより一層「なぁ~んや、そういうことやったんか」と目が覚めた感覚になった。
これまであった感傷的な感情が消え、ケロリと明るい氣持ちになったのだ。
「だって自分の中にプログラミングされたものが自動操縦されただけでしょ。わたしのせいじゃないもーん」と笑。
自我が人の中に形成された時点で、恐れ、罪悪感、不足感、自己否定などがもれなく内臓される(これを自我のプログラミングと呼んでいる)。
これは人間であればみなに起きていることで、人はこれをベースに思考を働かせ自我をより強固なものにし、ホントの自分からどんどん離れていってしまう。
そしてこの「恐れ」による自動反応もまた無自覚で起きているのだ。
自我は「個」という感覚を生み出す。
そこには世界から切り離された孤独な存在感がある。
そうして「わたし感覚」が強まっていく中で、「わたしが1人でなんとかしなきゃ」「わたしが1人で頑張らなきゃ」という不安や恐れを根底に抱えながらみな社会の中で必死で生きている。
この現代社会、表向きはそんなふうに見せなくても本当はみんな苦しさを抱えてる人が多いんだと思う。
わたしもそんなひとりだったので、父から稼業を継ぐことになったときこの自我による「恐れ」が自動的に働いた。
コワイ、コワイ、コワイ!
未経験のことをする恐怖。
大きなお金を動かす恐怖。
そこには色んなコワさがあった。
そんな中、予想外のことが次々起こり次第に「父に面倒なことを押し付けられた」とか「妹は自分の事しか考えてない」などプログラミングの恐れが大暴走したのだ。
「こわい! 誰も助けてくれない! どうしよう」
そんな思いに駆られた結果、自分の身を守る行為として家族を「敵」とみなしてしまったのだ。
それは自動的に起きた。
当時は苦しくてこんなことを説明されても受け入れられなかっただろうけど、今ここへきてようやくわかった。
そういうことだったのかと。
数年前からわたしの自我の解体は始まっていたのだ。
自我の仕組みを知ることで自分に起きていたことへの理解がより一層深まった。
分かっている。
これが分かったところで頭の理解にしか過ぎないことも。
自我を分析することが自我を喜ばせることも分かってる笑。
そのことに自覚があってやっているからいいのだ。
自我にのせられず、ただ淡々と身体の感覚とつながる。
地味なワークを続ける今日この頃です。
今日も読んで下さりありがとうございます。
また書きます。