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役を降りると幸せになるこの世のしくみ。
この世界は、役を降りた人から幸せになれるシステムになっている(と個人的に思っている)。
役というのは、会社や家庭、コミュニティ内での役割りのこと。
わたしたちは、○○の仕事をしている社会人である前に、両親の子供である前に、○○という子を持つ親である前に、パートナーの妻(夫)である前に
ひとりの人間だ。
それを忘れて社会生活を送る中で便宜上つけている「ただの仮面」を自分だと勘違いしてしまう。
それゆえ本当にやりたいこと(そしてその先にある幸せ)を見失う、ということがよく起こる。
色んなしがらみから解き放たれて自由になったとき、あなたは何がしたい?
ただひとりの人間としての存在になったとき、あなたは何に幸せを感じる?
その答えが本当にあなたのやりたいことであり、幸せだ。
役を演じているとき、心が求める真の幸せは見えづらい。
と言うより見えていても氣づかないフリをしていると言った方が正解かもしれない。
なぜならその役をやっていては、薄々感じている本当にやりたいことは実現不可能に見えるからだ。
会社を辞められないから。
親の介護があるから。
子供の世話があるから。
夫が反対するから、、、。
役をやってる限り理由はいくらでも出てくる。
でもそれでホントにいいの?
あなたはその役を演じるために生まれてきたの?
役を降りれない(と思っている)のは、そんなこと社会的にゆるされないという思い込みがあるからだ。
「家族よりも自分の幸せを優先させるなんてしてはいけないこと」
わたしたちはDNAにそんな楔を打ち込まれてるんじゃないだろうか、と思うほどそれを罪深きものと考える風潮が強い。
大事に育ててくれた親の面倒をみないなんて。
大切な我が子の世話をしないなんて。
最愛のパートナーの望むようにいられないなんて。
自分の幸せを望むことは家族を犠牲にすることだ。
それは人道的に反している。
そう勘違いさせられている人がとても多い。
でもそれって本当だろうか?
わたしはわたしだけの幸せを願ってはいけないのだろうか?
わたしはここ数年でよき娘、よき姉、よき妻であることを全部やめた。
状況的にそうしなければ自分が崩壊してしまうところまで追い込まれてそうなった。
最初の頃は罪悪感の嵐の中で吹き飛ばされそうになったけれど、今ようやく自分の選択を「やっぱりそれでよかった」と思える自分になってきている。
そんな自分になって思うのは、役を降りることは魂の自立だということ。
そしてそれが本来、人のあるべき姿なんじゃないかということだ。
何の役にも属さず、ただ自分の幸せのためだけに生きる。
それは自分勝手でもなんでもなくて、むしろわたしがわたしを生きるからこそ家族も自分で自分を幸せにすることを自発的に始める、ということが起こっていった。
皆、自分を幸せにできるのは自分しかいない、ということに氣づいていったのだと思う。
わたしだけの幸せを考えることは、真の幸せへの第一歩。
それは結果的に家族の幸せにもつながっていく。
だから堂々とわたしを一番に生きてほしい。
いまそんなふうに感じています。
今日も読んでくださりありがとうございます。
また書きます。