ケータイ小説と横書きの文章について
中学生の頃、ケータイ小説がブームになった。
書店に足を運べば、ベストセラーから、新作まで、様々なケータイ小説が並べられていた。
次々に映画化・ドラマ化された。
テレビでは、どうして皆に支持されているのか、インタビューを交え報道され、「縦書きは、少し読みづらいですね。やっぱ横書きだとすらすら読める気がする。」と、画面の中の女子高生が答える。
縦書きと横書き、どちらの方が早く同じ文章を読むことができるのか、検証までも行われていた。
だから、ケータイ小説は多くの人に支持されるのです。というわけだ。
縦書きの、純文学が大好きだった私は、あぁ、これからの小説は、横書きになっていくのか―――。と、少し寂しい思いをした。
しかし、本好きとしてはケータイ小説も押さえておきたい。何冊かお小遣いで購入し、読んでみた。中学生という多感でありながら恋愛経験もない頃だったからであろうか。
妙にリアルで、刺激的なストーリーに引き込まれていった。
「面白いじゃん」素直にそう感じた。
全く新しいジャンルで、少女漫画をそのまま文章にしたかのような、かつ文字の良さもしっかりとそこにあった。
いま思い出すと、字体も世界観を表していたような気がする。明朝体ではなく、少しだけ大きめのゴシック体だった。
純文学の登場人物よりも、ケータイ小説の登場人物の方が、身近にいる気がした。同じ町に住み、すれ違っている気がした。それがケータイ小説の魅力であったと思う。
それから、何度かスマートフォンでもケータイ小説を読んだ。
ほとんどは恋愛もの。主人公は天然で、好きな男性はイジワルだけどたまに優しい。そういった話が多かった。
読書嫌いな人が言う、「なんだか教科書みたいな感じ」がケータイ小説にはない。
横書きによるポップさ、話の展開の仕方には、やはりならではのものがあった。わくわくさせてくれた。
あれから10年ほど経ったが、今ケータイ小説はどうしているだろう。
書店にも、以前ほどの取り上げられ方はもうされていない。
「横書きでものをかく」という新しいジャンルかのように思えたが、雑誌をみても、小説をみても、やはり今でも縦書きが主流だ。
ケータイ小説の全盛期は、今でいう「ガラケー」が必需品だった時代。
学校で配られるプリントや教科書以外で横文字を見るのは、メールやパソコンだけで、今のようにSNSも主流ではなく、横文字はあふれているようでそうでなかった。
横文字が「娯楽」になることが、なんだか嬉しかったのかもしれない。
様々な憶測はあるが、ケータイ小説が衰退した原因は何だろう。
内容が時代遅れだとか、そういった類のものではない。
それならば内容だけ変化して、「横文字の小説」は残ってよいはず。
私は、大きく2つあると思っている。
1つは、スマートフォンへの移行。
ガラケーの頃は、電子文字の一つ一つが大切だった。今のように、横文字があふれていなかった。相手に何かメッセージを送る時に、この文章だと印象はどうか、最後にどんな絵文字を付けようか、毎回熟考していた。わざわざデコレーションまですることもよくあった。
私たちはケータイ小説を読む時に、並べられた横文字を見て、作者が行っていたであろう、この熟考を疑似体験していたのではないかと思う。
それがストーリーと絡み合い、やけにリアルに感じられ、夢中にさせられていたのではと。
2つ目は、私たちの遺伝子について。
私たちの先祖は、漢字が入ってきて読み書きができるようになってから、ひらがなができても、近代語が生まれ、明治維新があってからも、何の疑いもなく縦書きで文章を書いていた。
約2000年間、血でつながり、文字を培ってきた日本人にとって、縦書きの文章は、やっぱり何か「しっくり」来るのではないかと思う。
そんな日本人にとって、物語を「横で書く」という文化が、ご先祖様から引き継いできた遺伝子に嫌われてしまったのではないかと思う。
(そんな私も、ここは横文字で文字を書く場所だが、いったん縦書きで書いたものをペーストしている。)
昔のメディアも、横文字のメリットをたくさん取り上げていた。
確かに、情報は伝わりやすいかもしれない。
しかし、文章は「情報」ではない。
ケータイ小説というジャンルが「純文学」や「随筆」に入り込めなかったのには、そういった理由があるように思う。