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#8 イベントレポート02 「まちづくりは、文化づくり」 at 京都文化博物館

こんにちは。編集長の松島です。おひさしぶりの更新なのでプロフページ貼っときますね。

先日、京都文化博物館別館ホールにおいて、ENJOY KYOTOコミュニティ主催の第2回目のイベントを開催。今回もぼくが登壇者のひとりとしてお話させていただいた。今回のテーマは「まちづくりは、文化づくり」。京都文化博物館学芸員の村野正景さん、京の三条まちづくり協議会事務局長の西村祐一さんをお招きし、TikTokやインスタで10万人を超えるフォロワーを有する三宅夏愛さんとぼくとの4人で、なぜ博物館がまちづくりに関わるのか?そもそもまちをつくるってどういうことなのか?などについて、話をさせてもらった。

京都文化博物館学芸員の村野正景さん
京の三条まちづくり協議会事務局長の西村祐一さん
TikTokやインスタで10万人を超えるフォロワーを有する三宅夏愛さん

今回は前回以上にアカデミックなテーマであるにもかかわらず、しっかりお金を払って見にいきたいと集まってくれた人が多くいたことに驚きとともに、感謝の気持ちでいっぱいだった。英語で奈良や京都を案内する仕事の方や、京都でレースの生産・販売を行う企業の社長さん、大学の広報担当者さん、ラジオDJさん、大学院で建築を学ぶ学生さんなどなど、今回も職種や年齢も多種多様な方々が参加してくださった。あらためてここで感謝の意を述べたい。

1906年(明治39年)建築の京都文化博物館別館(旧日本銀行京都支店)

さて、会場となった京都文化博物館別館ホールは国の重要文化財。東京駅や大阪市中央公会堂、奈良ホテルなどの設計でお馴染みの辰野金吾の設計による近代建築の傑作といわれている建物だ。もともと日本銀行京都支店として建てられた建物だけに、銀行の窓口だった当時の面影を残すしつらえが美しい。古いヨーロッパ映画の駅の切符売り場を彷彿とさせる。ちなみに、昭和22年生まれのぼくの母が子どものころだったころ、まだ日本銀行として使われていたこの場所に、母の祖父の仕事の関係で一緒に連れられてきた記憶があるという。この窓口の写真を見て記憶が蘇ったのだそうだ。それにしてもぼくの曽祖父はいったいどんな仕事をしていたのだろう?母は全く記憶がないというのだ。

ほかにも天井の電気や階段の手摺り、ドアの装飾や施錠の仕組みなども、いかにも明治時代に建てられた洋館らしく、瀟洒で機能的にもユニークなものばかり。これだけでもひとつ記事が書けそうだが、京都文化博物館の紹介ばかりしてもいられないので、そろそろトークの中身に入っていくことにしよう。

京都文化博物館学芸員の村野正景さんから、京都文化博物館の概略についてかんたんに紹介いただいたあと、京の三条まちづくり協議会事務局長の西村祐一さんから協議会の活動についてお話いただいた。まちづくり協議会の話でおもしろかったのは、たとえば京都市内中心部でビルや建物を建てる際にはその申請を当然のように役所にする必要があるのだが、窓口へ行くと必ず「地域の協議会に説明会を行い、承認をもらってからあらためて来てください」と言われるのだそうだ。つまり先に地域の同意がないと役所に建築申請することすらできない決まりになっているのだそうだ。その際にたとえば三条通りであれば西村さんなどまちづくり協議会が窓口となっているということなのだ。これはぼくは知らなかったのだけど、とてもいい規則だと思った。

また、博物館関連で興味深かったのは、昨年の4月に博物館法が改正され、博物館が単に文化財の保村や展示という本来機能だけではなくより広範な役割を果たすことが求められるようになり、とりわけまちづくりに寄与することが明記されているのだが、京都文化博物館はもともと法改正されるよりずっと前から異例なほど、いわば先駆けてまちづくりに積極的に関わってきたという話。そのひとつがこの京の三条まちづくり協議会との協働によるさまざまなプロジェクトだったという。

ぼくはここまでの話を聞いていて、観光事業者の立場なので観光との関連でいろいろと思うところがあった。発見と言ってもいいだろう。つまりはこういうことだ。たとえば「観光」という言葉は、もともと易経の言葉で中国の王が「国の威光を観る(視察する)」というのが起源とされている。いっぽう「tour」はグランドツアーという英国貴族がイタリアなどヨーロッパ大陸の文化を学ぶための集団旅行で、こちらも「教養旅行」のことだった。それが19世紀後半になってトマス・クックがツアーの大衆化を図って、ツアー会社や旅行代理店、パンフレット制作などを多角経営で始めた。これが実現できたのは産業革命による近代化で労働者階級が余暇を楽しむ生活ができるようになったこと。現代的な意味での観光という概念が誕生した「旅行の大衆化」は、近代化と切っても切れない関係なのである。
また、19世紀前半、パリでパサージュと呼ばれるガラスの屋根付き商店街(アーケード)が流行。ドイツの批評家ヴァルター・ベンヤミンは、そこで店を覗きながらぶらぶらと無為に歩く人々を「遊歩者」と呼んだ。パサージュが登場するまで遊歩者は存在しなかった。パサージュは商店街やショッピングモールの起源であり、遊歩者が観光客の起源だともいえるだろう。

19世紀ヨーロッパで起こった観光に関するこのふたつの現象は、すこし遅れて日本に起こる近代化の波とほぼ繋がっていたと言っていいだろう(ちなみに近代建築の傑作である日本銀行京都支店(現・京都文化博物館別館)が建設されたのは1915年)。近代化がもたらした西洋建築と観光というふたつの概念が、まちづくりというテーマを通じてここ三条通でまさにクロスしているというのは、個人的にとても興味深いことであり、ある意味で現代の京都の課題がいわば近代化の時代と地続きの関係にあるのだと気付かされたような感覚があった。

もうひとつ。まちづくり協議会の話でいえば、京の三条まちづくり協議会はその名のとおり、東西に延びる三条通という「道」をひとつの単位としてまちづくりを考えている。東は寺町通から西は新町通まで。そこには7つの町内会がまたがっている。ここで京都に住んでいる方はピンと来ると思うのだが、地蔵盆や回覧板など京都の行事などの単位は基本的には町内会によって区分されている。と同時に京都ならではの「学校区」のつながりが非常に強固なのが京都の地域の特徴なのだ。地域の運動会もこの学校区ごとに行われている。

つまり、複数の町内会と複数の学校区にまたがる、通りを単位として協議会を発足するというのはそれだけで非常にめんどくさいことがいろいろあるだろう、ということが京都人ならば容易に想像されるわけだ。そのあたり突っ込んでみたが西村さんは苦笑しつつも「みなさん協力的でむしろこれまで一緒にやってこなかった別のコミュニティ同士が繋がれるいい機会だと思って賛同いただけてる部分は大いにあると」語っていた。京都人以外にはなんのこっちゃと思う話かもしれないが、ぼくはこのコミュニティのありかたに、非常に新しい可能性を感じたのだ。

とくにこれも西村さんの話にもあったのだが、三条通は住居と商店と企業、それに博物館などの文化的な建物がバランスよく並んでいるのがいい。町内会は地域住民、学校区はPTAというふうに偏りがちで、多様化した近年では地域住民の考え方も個人化・多様化してつながりが弱い。また子どものいない家庭にとっては学校区という単位はほぼ関心もなく属している意識も薄い。そうした意味で通りというコミュニティによって、住民だけではなく企業や公共施設なども含めた多様な集団でまちづくりを考えるという考え方は、現代的な生活環境を考えるコミュニティの単位として非常にマッチしているのではないかと思うのだ。

午前のトークパートが終わって、前田珈琲文博店でのランチ交流会。ぼくは喫茶店のランチといえばのカレーライスを頼んだのだが、カレーはぼくとαステーションなどで活躍されているDJの森夏子さんのふたりだけ。ミートソースパスタもふたり。残りの10人ほどがみんなボンゴレパスタだったのは意外だった。時代は変わってるのね、と森夏子さんと笑いながら話していたが、実際にボンゴレパスタはおいしそうだった(もちろんカレーライスもおいしかった)。

腹ごしらえも終わって、参加者とスタッフの距離も近くなったところで、午後からは7つある洋館を中心に三条通のまち歩きをしながら、京都景観フォーラムの篁さんのガイドによるまちづくりの考えかたや重要性などを、実際に街を歩きながらご案内いただく「まち歩きパート」へ。

ふだん何気なく歩いていると気に留めなかったが、たしかにあらためてみていくと三条通には洋館建築やその名残が多い。なかでも驚いたのがこの石造りの建物の一部分が残された跡。これは辰野金吾設計によるセセッション様式の影響を受けた日本生命京都三条ビル旧棟の名残なのだが、1983年に鉄筋コンクリートに改築された際に東側と西側に残されたものだそうだ。これについてはさすがに今回初めてその存在に気がついた。

1914年(大正3年)建築の日本生命京都三条ビル旧棟(旧日本生命京都支店)の東南角
日本生命京都三条ビル旧棟(旧日本生命京都支店)の西側に少しだけ残された壁の一部)

トークの際に洋館建築が集まっているのは三条通が物流拠点だったことがあり、ここに銀行や証券会社といった近代的な企業ビルが集積したこと、それがそのまま残されたという経緯があるという話があった。では、なぜ物流の拠点になったかといえば三条大橋が東海道の終点だったこととも関係があるだろうということは容易に想像でき、その三条大橋は秀吉が行った事業のひとつだったりもする。さらにもっと遡れば京都文化博物館のあった場所は、もともとあの平家追悼の令旨を出した「以仁王の乱」で有名な以仁王の住居である高倉宮があった場所だった。というか、そもそも平安京の造成は「通り」を中心におこなわれた「条坊制」だったのだ。なんてことを考えながら歩いていると、いろんな歴史の舞台としての三条通や京都文化博物館があった界隈の、その時々の姿が目に浮かんでくる。それはとても新鮮な感覚だった。

家邊時計店。1890年(明治23年)建築で三条通周辺の近代建築でも最も古いもののひとつ
高村さんによるとかつては建物上部に写真のような立派な時計台があったそうだ

街を語るうえで、たとえばどこにどんな店があるか、といった「情報」はあくまで平面的な絵でしかない。その情報に、その店をどんな人がやっていて街にはどんな生活があるのか、という「背景」を書き加えることで絵に奥行きを与えられ、さらに過去から現在に至る経緯や時間の流れという「歴史」が加わることで立体化する、つまり文字情報が、3Dになるのだ。そして3Dになることで、これまで見えていなかった街の実像が、より鮮明に、よりくっきりとしたかたちを伴って浮かび上がってくるのだ。

1916年(大正5年)建築のSACRA(旧不動貯金銀行京都支店)

そもそもこのENJOY KYOTOコミュニティにおけるイベントでは、観光事業者であるぼくたち、つまりどちらかといえば京都を世界に開いて多くの交流を受け入れる側と、どちらかといえば街の文化の維持・保存と生活の平安を求める側、その両者の対話により、バランスのとれた持続可能な街の未来を考えたいという趣旨がある。そういう意味で「道」を起点にした新しい街のありかたを語り合い、実際にその街を歩くことができた今回のイベントは、じつに意義の多いものだったと思っている。

今回のイベントは午前にトークで街や通りについての背景を学び、そのうえで実際に歩くというプロセスを経たことで、そうした「知る」ことから「見る」、そして「体験する」をひとつにしたENJOY KYOTOコミュニティらしいイベントのかたちになったと自負している。前回もお庭、坐禅を経たうえで、寺宝や文化財の継承について語り合った。ぼくはここに「考える」というプロセスを、もっと組み込んでいきたい、というか「考える」を中心に据えるイベントにしていきたいと構想している。ここでいう「考える」というのは、自室で机に向かってあれこれ思索を巡らすということではなく、語り合うことによって考えることそのものを楽しむ場。「対話」と言い換えてもいいかもしれない。いわば「市民大学」のようなものだ。現状では制限時間などのこともあり、なかなかまだ難しいのだけれど、今後の課題としていきたいと考えている。

そして、そんなぼくの構想や考えに賛同してくれた人は、ぜひ次回以降のイベントに参加してもらって、一緒に考えてもらえると、ぼくとしても心強い。何しろコミュニティなのだから、そうした考えることを楽しむ隣人を増やしていきたいと思っているので、これからもどうぞよろしく。

ALKOTTOメンバーも手伝ってくれました。おつかれさまでした!

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