見出し画像

#12 生誕100年記念 人間国宝・志村ふくみ展「色と言葉のつむぎおり」に行ってきた。

またまたおひさしぶりの更新となった編集長・松島直哉による不定期日記。今回は志村ふくみさんの展覧会を観に、滋賀県立美術館に行ってきたことについて書きたいと思う。ぼく自身この春に発売された別冊太陽で署名入りの記事を書かせていただいていたことや、ALKOTTOの誌面でもアトリエシムラさんに取材させていただいたこともあり、これは絶対に行きたいと思っていた展覧会。結論からいえば最高の時間だった。


まずこれまでの人生でたぶんいちども降りたことないJR瀬田駅で降り、駅前のターミナルで帝産バスに乗っていく。ぼくはむかしから田舎町の駅前の田舎バスのターミナルが好きだった。その田舎バスの車窓を流れていく知らない街を眺めるのとかも大好物。だらだら坂道を登ったり大きな川や橋を渡ったり、団地なんかが見えるとさらにいい。このままどこか遠くまで行って、自分のことを誰も知る人がいない街でひっそり暮らしていけたらなあ、とか妄想したりするのが好きだった。

新快速は停まらないので鈍行(まあ死語)でゆったり向かう。

しかし、いまや自分は思春期を拗らせた中学生ではなく、妻も子供もいる53歳のおっさんである以上、もちろんそんなわけにはいかないので、駅からバスでおよそ10分くらい乗ったところ、坂道を登った丘陵にある滋賀県立美術館でバスを降りる。ICOCAは使えないので両替をして現金で250円を払う。目的地まで約3kmの距離を運んでくれてなおかつ束の間の夢のような妄想を楽しませてくれたことを考えると、その対価として250円はずいぶん安いものだ。

滋賀県立美術館は、県立図書館や大きな池のある池泉回遊式庭園、子どもたちが遊べる広場などがある「びわこ文化公園」のなかに位置する。あたりはすでに紅葉が始まっていたものの、平日の午後はやくということもあり、人はまばら。山の上ということもあるのか空気は澄んでいて気持ちがいい。あたりはシンと静まり返っていて、落ち葉を踏む足音だけが耳に聞こえる。村上春樹は11月の空気を「何もかもがすきとおってしまいそうな」と書いていたっけ。バス停から美術館までのなだらかな坂を登りながら、まだ若くてお金がなかったころ、秋の公園や植物園といったこうした場所をよく女の子と歩いたな、なんてちょっぴり感傷的になる。あの女の子たちはみんないったいどこへ行ってしまったんだろう、なんてザ・ビーチ・ボーイズの古い歌の歌詞みたいなことを脳裏によぎったりもする。まあ、それが秋という季節なのだろう。

さざなみをただ眺めているだけの時間。みたいなものがもっと必要だなあ。
映画とか撮ってた頃、とにかく会話シーンではこういう階段を歩かせたりしたなあ。

さて肝心の展覧会。公園内の人影はまばらだったが、館内には多くの人が来られていた。多くは30代以上の女性客が中心だったが、なかには20代の若い女性やぼくのような男性客もいた。それでも京都市内中心部の美術館とは違って、ゆっくり落ち着いて見られる雰囲気だったのが良かった。いわゆるミーハーな感じの人は少なく、品よく落ち着いた雰囲気の人が多かったのも、まあふくみ先生のファン層ゆえともいえるのかもしれない。お着物で来られている人も何組か見かけた。

展示はテーマごとにいくつかのChapterに分かれて章立てなっていて、作風の変遷や意図などがすごくわかりやすかった。作品の前に立ち、まずは遠目で全体のシルエットを眺め、次にガラスに鼻が当たりそうになるくらいまで近くに寄って糸一本一本のを凝視する。さっきも書いたようにみなさんマナーもよくて、落ち着いてゆっくり見ることができる雰囲気だったし、それこそふくみ先生がこれらのお着物を染めて織ったときのように、自分も一点一点を細部まで丁寧に見ることができたのもよかった。おかげで2時間近くかけてゆっくり見て回った。急ぎの仕事で帰る必要に迫られていなかったら、さらにあと1時間くらいはいたかもしれない。

「杜」という作品。ひとつひとつのスクエアが木の葉を現し、遠目で見るとそれらがで集まって杜になっているように見える
近くで見たときはまた印象が変わり、ひとつひとつの色の表情が立ち現れてくる。

吸い込まれるようなというか息を呑むようなというか、とにかくハッとするような作品がいくつもあって、それこそ息継ぎを忘れそうな感じだったのだけど、やっぱり自分のなかで強く惹きつけられるのは、藍だった。

たとえばふくみ先生がイタリア旅行に赴かれた際、田舎町の教会のミサに参加したときに得たインスピレーションから製作された「聖堂(みどう)」という名が冠されたお着物。ほのかに灯る蝋燭の炎をイメージしたものだが、三角屋根の教会のシルエットにも見えてくる。

「聖堂」。たぶんこの前にいちばん長くいた。なにかに祈りを捧げる人みたいに。

それから「水瑠璃」。藍一色、垂直方向と水平方向に伸びる縞のグラデーションのみで構成されたいかにも潔い作品。ぼくはこの作品からも、どこか西洋的な祈りのようなモチーフを感じた。おそらくそれは茨木市にある建築家・安藤忠雄さんの名作建築「光の教会」を想起させるところがあるからかもしれない。

「水瑠璃」。一瞬ライトが当たってるのかと思うくらいに、濃淡のグラデーションが本物の光に見えた。

そして今回、この展覧会が滋賀県立美術館で開催されたこと、ふくみ先生が滋賀県近江八幡の出身であることなどから、この最終章にあたる近江 百年の原風景」の一連の作品群、なかでも「湖上の夕照」「楽浪」「冬の湖」あたりが、ぼくにはとくにインプレッシブに感じた。作品を少し離れた場所から目を細めて見つめていると、琵琶湖の春・夏・秋・冬、朝・夕などの風景が浮かんでくるのだ。これを手織りの着物で表現するということのものすごさ、圧倒的な手仕事の迫力のようなものを感じた。

「楽浪(さざなみ)」。楽浪は万葉集や和歌などで滋賀を表す枕詞とされている。遠く見える山々と、朝日に眩く光る湖面を揺らすさざなみのように見えてくる。
「湖上の夕照」。こちらは目を細めてみるとたしかに琵琶湖の夕景が浮かんでくる。いずれもまるで印象派の絵画のよう。これ、織物なんだぜ。

立川談志が「不快を他人やテクノロジーに解決してもらおうってのが文明で、不快を自分自身で解決するのが文化」と言っていたが、ぼくが文明一辺倒の現代に違和感を覚えるのは、まさにそういうことなんだろうと思う。自分でできることなのであれば、どれだけ手がかかったとしても自分でやるほうが心地いいに決まっているのだ。それがなにより手仕事の良さなんだと思う。手仕事はその人の生き方を問うてくるのだ。志村さんはこの展覧会に際して「琵琶湖を藍甕(あいがめ)に例えるなら、この先も美しい色彩がそこから生まれ出ることを祈って止(や)みません」という文章を寄せている。手仕事とともに、自然の草木や花々などが生息する美しい野山も失われていることにも思い至り、愕然とする。

美しい自然を後世に残し、伝統や手仕事を受け継ぐこと。それはAIが発達すればするほど大切になってくるであろう「人間らしさとは何か?」という問いへのひとつのヒントを提示しているようにぼくは思う。抽象化・均一化・効率化・合理化。これらはすべてAIがもっとも得意な分野であり、これを追い求めていけばいずれAIに勝てなくなって、やがて人間は不要になる。だから人間はむしろ個人的で不均等で非効率なことをすすんでおこない、不条理なことや間違うことこそを大切にしていく必要があると思っている。

色糸を使ったインスタレーション。めちゃくちゃカッコよかった。

最後に、お着物はもちろん素晴らしいのですが、もの書きのはしくれとしては、ふくみ先生直筆の原稿がたまらなかった。文筆家としての才も際立っていたふくみ先生。「一色一生」は、ぼくも何度も読みかえし、その考えに強く影響を受けてもいる。

また今回「色と言葉のつむぎおり」というタイトルが意図するように、作品の傍にふくみ先生の鋭敏な視点で捉えた世界を柔らかな表現で語った、その言葉たちが添えられている。その言葉の数々は、美術展によくある作品解説の類ではなく、現実世界からやってきた鑑賞者を作品世界(霊的な異世界)へとより深く誘うための案内役のような役割を果たしていた。そしてふくみ先生のその言葉ひとつひとつもまた作品なのだなとあらためて思うのだった。こちらも、ぜひ堪能してもらいたい。

とにかく、めちゃくちゃよかった。会期は今週末の11月17日(日)までの開催なので、ぜひこの週末に足を運んでみてほしい。くわしくは下記をチェック!

いいなと思ったら応援しよう!