0070 国家の根本ルールと立憲主義
○ 仁義なき戦い
学生時代。
私のささやかな楽しみは、街のサウナ風呂へ行き、ビールを飲んだ後、休憩室で古い映画をボケーっと観ることでした。
その中で特に印象に残っているのが「仁義なき戦い」。
良い子の皆さんには決してお勧めできないヤクザ映画ですが、組の若頭(わかがしら)が、親分の言動に怒って吐くセリフは超有名。
親っさん、言うちょいたるがのう、あんたははじめからわしらが担いどる神輿(みこし)じゃないの。
組がここまでになるのに誰が血ぃ流しとんの。
神輿(みこし)が勝手に歩ける言うんなら、歩いてみいや、おう!
いやあ、何度聞いてもスカッとしますねえ。
私がこのセリフを誰に吐きたかったかは、極秘事項ですが(笑)。
実はこれ、憲法オタク的には、とても面白いセリフなんですね。
この親分、ヤクザ組織を支える掟に反することをした。
それに怒った若頭に対して、親分も反論できないわけです。
○ 国家の根本ルール 実質的な意味の憲法
実は、こういう組織を支える掟=根本ルールは、古今東西を問わず、あらゆる組織に存在するとされます。
そして、現在存在する国家は、すべて「バラバラな人」が共通の「国民意識」を持ち、国民国家となった歴史を持っています。
つまり、国家も組織でして、当然、それを支える根本ルールがある。
それを、英語・仏語では ”constitution” というのですが、江戸末期にこの言葉に接した日本人は、四苦八苦して「憲法」という訳語をひねりだしました。
(それゆえ、ややこしいですが、聖徳太子の「十七条憲法」は、constitution としての憲法ではありません)。
そして、アメリカ合衆国憲法(1788)以来、この根本ルールを、「憲法典」という特別な法形式にするのが、文明国のトレンドになりました。
明治政府が、国家プロジェクトとして大日本帝国憲法(1989)を制定したのはそのせいです。
「憲法典もない野蛮な国」と見なされたままでは、西欧列強に押しつけられた 不平等条約 を解消することができなかったのです。
〇 立憲主義(りっけんしゅぎ)とは何か
ただ、この憲法典の内容は、それぞれの国ごとにバラバラです。
それゆえ、いろいろな形で分類されるのですが、その中に、「立憲的かどうか」という分類があります。
「日本国憲法は、立憲主義にのっとった立憲的憲法である。我々が学ぶべき憲法学の対象は、この立憲主義的憲法である。」
というようなことは20年前の教科書にも載っていました。
つまり、高校までに習う「基本的人権の尊重、国民主権、平和主義」という「三原則」よりも、より深いところに、憲法の基本的理念というべきものがある。
それが「立憲主義」であり、イラク戦争後に自民党が出そうとしていた全面改憲案は、この基本理念のレベルで憲法を変えようとしているのだろう。
このことは、2005年の人権大会準備プロジェクトの最初のころから共通認識でした。
ただ、苦労したのは、では「立憲主義」とは何か?-が、当時の改憲案にかみ合う形で言葉にできなかったところです。
立憲主義の定義に関連してよく引き合いにだされるのは、フランス人権宣言中の
「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、憲法を持つものではない」
という言葉です。
これは間違いではないけれども、自民党は「権利を保障しない」とはいっていないし、「三権分立」を否定しようとしているわけでもない。
それゆえ、この定義では、議論がかみあいません。
しかも、私たちがこの問題に取り組み始める少し前から、学者さん達の世界で「地殻変動」と比喩されるような、人権保障の基本概念についての大論争が起きていました。
かくして、「個人主義」individualism と「法の支配」rule of law という、自民党の改憲案の急所を突く概念にたどり着くまで、地獄の一年間が始まったのです。
そのいきさつについては、これから順を追ってお話しましょう。
〇 後日談
深まる立憲主義についての議論
さて、2005年の人権大会から約20年がたち、憲法の教科書も様変わりしました。
縦書きから横書きに変わったのも時代の変化を感じさせますが、憲法とはそもそも何か、立憲主義とは何なのかということについて、とても多くの頁を費やしていて、今読むと、とても勉強になります。
20年前に私たちがたどりついた「個人主義」「法の支配」という概念も、立憲主義の全てではなく、他にもいろいろ重要な要素があることがわかりました(例えば、「リベラル」 liberal 寛容 という思想など)。
ということで、少し文章を付け足しますが、ちょっと難しいかもしれませんので、今は飛ばして、後で読んでいただいても結構です。
大日本帝国憲法の評価
最近、大日本帝国憲法の評価が、かつてのように「非立憲的」と一面的に評価されなくなってきています。
大日本帝国憲法には、2つの役割がありました。
1つは、バラバラだった「日本列島に住む人々」が持つべき「国民意識」を明確にし、国民国家を完成させることです。
もう1つは、「憲法典もない野蛮な国」という汚名を晴らすことでした。
それを反映して、大日本帝国憲法は「告文」「憲法発布勅語」(前文)と、本文(条文)からなっています。
※ 国会図書館HPより
憲法条文・重要文書 | 日本国憲法の誕生 (ndl.go.jp)
ただ、高校までに習う「大日本帝国憲法」は、本文だけです。
そこにも 「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」(1条)
「天皇は神聖にして侵すべからず」(3条)
といった条文があります。
しかし、「戦前」を理解するには、「告文」「憲法発布勅語」の方が重要です。
とても難しい言葉が並んでいますが、これが、伊藤博文らが知恵を絞り、バラバラだった日本列島に住む人々を、ひとつの「日本国民」にまとめるための「神話」でした。
ところが、おそらく伊藤らの思惑を超えて、この「神話」が暴走し、日本が「神権的国体思想」に支えられた全体主義国家となり、大戦争のはてに破綻してしまった。
この歴史は、とても重いものです(誰が暴走させたのかという難しい問題もあります)。
他方、本文(条文)に対する学者さんたちの評価は、この時期(1889年)としては「文明国標準」に達していたというのが大勢のようです。
もともと、野蛮な国というレッテルを返上するため、大国プロイセンの憲法をコピーしたのですから当然といえば当然ですけれども。
ただ、それなりに立憲的な要素もあった憲法本文が、なぜ、告文に飲み込まれたのか?
これは、ドイツやイタリアのファシズム台頭とならび、20世紀の憲法学の最大の課題=「全体主義」を考えるうえで、とても重要な素材を提供してくれます。
最新の問題 憲法典と根本ルールとのズレにどう向き合うか?
さきほど constitutionとしての憲法とは、国家を支える根本ルールだと申しました。
そして、constitutionという言葉を辞書で引くと、憲法典という意味以外に、構成、組織、構造、体質、体格、気質、性質、政体-といった言葉がならびます。
これに対して「憲法」という訳語は、「法典としての憲法」に限定されすぎているきらいがあり、司馬遼太郎氏の連載で流行した「国のかたち」という言葉の方が正確なところもあるかもしれません。
それゆえ、この原稿では、あえて「根本ルール」という「ゆるい」日本語を使っているのですが、さて、憲法典と根本ルールにズレが生じたらどうするのか?
その極端な一例が、戦前のドイツです。
ヒトラーは、独裁者となっても、ワイマール憲法を改正しませんでした。
ただ、無視した。
敗戦とともに自殺するまでです。
先ほどからご紹介している2005年の人権大会は、明文改憲に対するものでしたから、この問題について考える必要はありませんでした。
しかし、第二次安倍政権から目立つのが、明文改憲案でフェイントをかけながら、解釈などと称して、憲法を無視するスタイルです。
最高裁判所は政府との対決を嫌い、有権者は憲法に無関心か、憲法の無視には怒っても投票行動に結びつかない。
それゆえ、憲法典と、実態とにズレができつつある。
しかも、憲法改正がなされるほどに、国民の意識は一方向に固まってはいない。SNSが普及しても、きちんとした議論ができる文化が醸成されていない。
これが、今の私が向き合っている最新の問題です。
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