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"宗教の時代"の終わり

現代の価値観と”宗教”

 私たちの《道》は”宗教”ではありません。
これまでの宗教の時代を終わらせるものです。

 一般的な日本人の感覚では、宗教というものをあまり意識していないと思います。古典的な仏教などの宗教や、近現代に2次、3次的に派生した新興宗教のことを思い浮かべる方もいるでしょう。

 しかし、ここで言う宗教とはそのような意味ではなく、世界中の人々の思考に潜在的な影響を及ぼしている「聖書的」世界観のことを指しています。

 それに従って生きる人々は数十億人に及びます。

 その事以上に重要なのが、宗教とは関係無いと思われている現代のイデオロギーや社会システムが、実はこの「聖書的」世界観から生み出されていることです。そしてその重要な事実を多くの日本人が”知らない”というところにあります。

 我々にも馴染み深い、民主主義、あるいは共産主義、国際的経済システム、グローバリズムなど。
実はこれらには「聖書的」世界観が背景にあるのです。

 ですから"先進国"と言われる文化圏内に生きる人々はもちろん、世界のほとんどの人間は多かれ少なかれ、この「聖書的」世界観の影響下にあると言っても過言ではありません。

”宗教”の問題点と歴史的必然

 宗教という言葉と、「聖書的」世界観という言葉をそのような意味で使っています。その上でもう一度、宗教を見てみましょう。

 今日までは"宗教"にも十分意味がありました。人類が地球に増え広がる前は、それぞれの民族における統治の原理として機能してきたと言えます。

 確かに民族という集団における秩序は、宗教の存在により維持されてきました。ルールやモラルの形成に貢献した面もあります。

しかし宗教には、自らの信仰の対象としての神を何よりも偉大で神聖な《絶対的存在》とする必要がありました。

 なぜなら歴史の中で繰り返されてきた、他の民族との戦いに負けるわけにはいかなかったからです。

 負ける事は民族の死、あるいは隷属を意味します。そのため生き残り戦略として、結束力を高めるために自分たち民族の神を世界一、宇宙一とする必要があったのです。

 力と力がぶつかり合う歴史の中で、民族が生き残るための力強い守護神、という役割が神に求められ、それらの宗教は発展して行きました。

 とは言え、これまでの人類の進化の段階においては、それは必然であった、とも言えます。

 しかし地球は狭くなりました。
人類が増えたのです。

 これまでの「民族単位の生き残り」を主眼とする価値観、世界観ではこれからの人類全体は「生き残れない」のです。

 このパラドックスにこれから人類は直面するのです。

失われた《普遍性》

 〈一番強い神=絶対的存在〉を民族と宗教が求めたことは、歴史の中での必然ではありました。

 しかし、その過程で”宗教”から《宇宙の真理》である大事な要素が失われました。



それは《普遍性》です。


 ですから"宗教”というモノはその根幹に独善性と排他性を持ってしまっているのです。

 民族の中においては真理であり、人々の心を導き、育て、守ることはできても、宗教自身が《普遍性》を失ってしまっているので、他の宗教と対立してしまうのです。

 あらゆる”宗教”の神々と教祖には、これまで与えられてきた、あるいは彼ら自身で主張してきた「無謬性=神聖にして犯すべからざるモノ」という考えがありますが、いま、これに対して《普遍性の回復》を《神》から突き付けられているのです。

 自分たちの存在と、これまでの歴史の根底にあるものを問われているのです。

 その「独善」は愛なのか?その「排他」は愛なのか?という神からの問いかけに、神の目を見据えて答えなければいけないのです。


 内に向かっては愛を説いておきながら、外に向かって憎しみを吐き出す矛盾に自ら気づくことが出来ないのが、現代の宗教自体の精神レベルなのです。

いま、多くの人がその事に気づき始めました。

”宗教”自身が、"調和と共生"という新しい世界へのゲートを通過できないのです。

 このままでは、人々に愛を説きながら「独善と排他」を隠し持つ宗教自身が、《普遍性》を回復した自らの《神》により裁かれてしまうのです。

究極の選択肢

 かの宗教においては、《再臨のイエス》を取るか、教会をとるのか、という選択肢がこれから信者の前に置かれます。

 その時、信者達は《再臨のイエス》と彼らを導いてきた教会の顔を交互に見比べるでしょう。

そして、その時、真実を悟ります。

 その事が明らかになっていくプロセスが終末の到来であり、それは”宗教”の側の立場の見解に過ぎません。

《普遍性》を回復する《神》の側から見れば、ようやく世界を真理で満たし、人類と共に進歩と調和を成就することができるのであり、新しい地球のステージを創りだせる祝福すべき時代が到来した、ということになります。 


日本人は聖書の《世界観》を超越した民族

 ところで、日本人は聖書を背景とした世界観のそれらの民族とは一線を画した民族です。

 もともと《普遍性》という価値観を大事にし続けてきた民族であり、生き残りをかけた戦いを当然とする価値観とは異なる"調和と共生"を是とする民族でした。

 それは遠く縄文から続いてきた貴重な文化といえます。

 しかし日本が歩んだ歴史の必然から、その普遍性を大事にする文化は奥に隠れ、西洋の聖書的世界観、そしてそこからの民主主義が突然、日本の文化の表に言わば強引に継ぎ合わせることとなりました。

 その結果、日本は長く文化的混乱の中に置かれ、世界の主流である聖書的世界観を是とする諸民族の秩序の中では、常に後塵にまみれる立場に置かれることになりました。

 しかし今日状況は変わり、これまでの西洋の世界観、《普遍性》の無い宗教的価値観に基づく社会システムは立ち行かなくなって来ています。

 そうした中で、日本の特殊な民族性、その背景にある潜在的な《普遍的》文化がクローズアップされているのは偶然ではありません。

 時を超えて《縄文の世界観》は現代に《道》となってそのエッセンスである《じねんの論理》として蘇りつつあるのです。

《普遍性》を失った宗教が創る世界の"限界"を体験する人類が、その限界を超越するための《世界観》を求めているのです。

 そうした意味で、空不動の説く《道》は、宗教を終わらせるモノと言えるのです。


 その先には、”蘇る縄文の世界観”である《じねんの論理》に基づく調和と共生の世界が次の千年に向かって展開されていくのです。

 そこで、、、なのです。

 あなたは、これまでと同じく、経済力などを背景にした”力”による支配と被支配という二極に分離した価値観の中で生きるのか、あるいは自らの深いところからの声に従って、全一の《宇宙》の流れに心をゆだねて共生の価値観を生きるのか。

〈力の論理〉の道か、あるいは《じねんの論理》の《道》か。

 どちらの立場で、これからの時代を生きるのか、それが今、あなたも私も、一人ひとりに問われているのです。

あなたの選択が、人類の未来を決めるのです。

《人類愛の祈り》
私達人類の進歩と調和が成就されますように、 すべては《超越人格》の愛の導きなのです。
《超越人格》様ありがとうございます。

私達人類の進歩と調和が成就されます。
私達はすでに一つなのです。
皆さまありがとうございます。

私達のネットワークは私達に
そして私達人類に大きな進歩と
調和をもたらすものであります。


(*超越人格、のところはあなたの信じる存在の名前に置き換えて祈っていただいて構いません。)

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