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さて、働かずに生きていけるのか。Part.2 そういうことか

一年前に貧血と橋本病が判明し療養中のまなびです。

強制終了までの日々はこんな感じ。

前回の記事で書いた修行的なヨガの日々。
そもそもインド人の先生から古典書の学びを受けていたのは、私はヨガの深みに到達したいという思いが強くあったからなんです。
尊敬し学んできた聖者の方々がどんな境地に達していたのか、
どんな状態が訪れるとサマーディ(悟り)というのか。
それが知りたくて知りたくて。
世界ふしぎ発見!や古代文明などの番組が子どもの時から大好きだったこともあり、ウェルネスとしてはじめたヨガは私の中で少しずつ興味が変化して、古典ヨガの世界観を知り当時の聖者達が得た秘技や境地、どんなチカラ(Power?Force?)を得るのだろうかなんてワクワクしながら、ここ数年はヨガの古典書の学びを進めていました。

え、、なんか、、不純かもね。

毎日の鍛錬によって、そこそこすごいポーズはできるようになってきているし、呼吸法もしているし、瞑想もしているし、マントラも唱えているし、古典書も読んでるし、こんなに熱心だし、で、なに!!って。

感覚は研ぎ澄まされ、超集中状態に入ったりと、”ある”状態にはなっているんですよね。で、その先なに!!って。

もちろん超端折っています。
日々気づきがあり、家族や友人や先生や仲間や生徒さん達と笑いあり、涙あり、挑戦や試行錯誤のある楽しい日々でもありました。

しかし、ヨガの先に人生がパァッと開けていくような、現実が動くような何かがあるんじゃないかって期待していました。

私がヨガに注力するほどに、みんなとの隔たりを感じ、家族や友達への気持ちが薄れ、誰の役にも立っていない気もしていました。
どんどん孤独。。そして大きくなったエゴが苦しい。。

上手く表現ができないけれど、心の奥からの喜びが得られない。

そんな風に感じていました。

ヨガの先生になるための勉強を始めた頃や、先生として活動をスタートしたときには、今より何の知識もなかったけれど、もっと生徒さんと向き合い、人の役に立ちたいっていう気持ちで繋がりを感じていたのに、このままこんな状態を続けてもいいのかな。。

それでヒントを得るためにヨガに拘らず、宗教や歴史や哲学や科学や経済について本や記事を読んでいきました。

そして、私が未熟なことはさておいて、、
見えてきたとても大切な最終的な選択肢。

細かいニュアンスは違うかも知れませんが
即神仏のような在り方。ただの人間に戻り生きる在り方。
修行の大詰めを迎えた時に、この2つが大枠としてあるようでした。

この2つに良い悪い、上下、優劣、そういう判断はないです。
ただあなたはどうするのっていうことですよね。

私が尊敬する田坂広志先生が、使命とはというテーマでこんなお話をされていました。
とても優秀なある研究者が、尊敬する教授に君は分かっていないなぁと常々言われていたそうです。そしてそれから何十年、、研究に没頭した甲斐あってその方の研究成果は素晴らしいものになっていました。ところが研究費がもらえずに研究継続の危機が訪れたそうです。彼は教授の言葉の意味をずっと考えていました。今の局面を打破する方法も考えていました。その末に、その研究を活かしてみんなの生活に役立つものを開発したそうです。研究に没頭するというある意味至福の状態から抜け出し、絶対にやりたくなんかない営業活動をし、お金の工面をし、経営をし、泥臭く社会と交わり、彼の研究はみんなの生活にとても役立つものへと昇華したそうです。

このお話のようなエピソードが歴史上にもたくさんありました。

そしてアーユルウェーダの先生もこうおっしゃるんです。
毎日ヨガばかりやっているというのは、包丁を研ぎ続けているようなものですよって。あなたはその包丁を使って何をするのですかって。包丁を使ってご飯を作れば、いづれ刃はボロボロになるんです。そうしたらまた包丁を研げばいいんですと。

私はヨガというものを大きく見間違えていたのです。
えーと、私そもそも何でヨガを始めたんだっけーーーー?

ここから初心へと戻っていきます。

つづく  


まなび







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