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クレバスと螺旋階段

 転職先の仕事が落ち着いたら、そして日々のお金のやり繰りに余裕が出てきたら、書道を再開しようと思っていた。そんな矢先に亡くなった祖母の筆を譲り受けた。およそ30本ほどもあった。

 私が両親に書道教室に通っていることを伝えた頃にはもう遺品整理はあらかた済んでいて、書道の道具なども処分済みであったのだが、また出てきたということで引き取ることにしたのだ。
 祖母は書道を長く嗜み師範を持っているような人だった、らしい。仲が悪かったわけではないけれど、正直なところそのあたりはあまりよく知らない。

「あけましておめでとう。あなたの、正月です」
正月は私の正面の席に腰掛けてそう言った。

「まだ12月だってのに、随分とち狂った挨拶ね。私の正月ってなんだろう。みんな正月は正月じゃない」
テーブルの上のまだ熱い紅茶を口元に運びフゥと冷ましながら、会話というより独りごとのように呟く。
「はは、まあね。正月っていうか、バースデーっていうか、クレバスっていうか、そんな感じ」

正月は目の前に置かれたティーカップを皿の上でカチャカチャと鳴らしているが一向に紅茶を飲む様子はない。正月って猫舌なのかしら。

はなやぎ市子ファンタジィ日記

 祖母の筆を譲り受けたこともあり、およそ1年ぶりに書道の先生に連絡を入れた。退会する時にはいつか再開する予定ですと伝えていたけれど、きっと先生も本当に戻ってくるとは思っていなかったのではないだろうか。
 連絡するとぜひにと希望の曜日ですぐにひと席用意してくれ、今月からまた教室へ通えることになった。とてもありがたいことだ。

 ところで私は新年のことを考えることが苦手で、年末は少し憂鬱になる。誕生日の前なども何だか焦燥があり、そして疲れ果てどんよりした気分になってしまう。
 年明けからあれを始めようとか、何歳はこんなことをするぞとか、そういう節目を待たず思い立ったとき物事を始めるようにしているのだが、あまりに節目を意識し焦燥感からいつもこの時期に何かをはじめようとしているのではないか、とふと思い当たった。
 ああ、私は正月をただ前倒ししているだけなのだ。そういえばしばらく埃をかぶっていたアコースティックギターも今月取り出した。筆を譲り受けたから、トムヨークのライヴに行ったから、本当にそれがきっかけだっただろうか。

 節目を意識しすぎて引き戸のレールほどだった区切り線が返ってクレバスみたいにくっきり深くなっている気さえする。

正月はまだティーカップを手元でカチャカチャやっていた。
「ねえ気づいてる?書道をはじめるって言ってるのもいま12月だし、ほらいつも使ってるあのヨガのアプリ、サブスクがいつ更新されるかみてよ。毎年12月だよね。だからあなたの正月がいま目の前に座ってるってわけ」

わたしは熱い紅茶を喉に流し込み、そして口の中をちょっと火傷したかもしれないって思った。

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 それでもまた書を習うことは楽しみだし、ギターを弾くのは楽しいし、ヨガもやっている。新しい気持ちで何かをはじめることを、好奇心を、としを経るにつれて減らしたくはないと思う。そして思い立った時に始めなければ、その好奇心はすぐに小さくなって消えてしまうことを知っている。
 けれど目の前でどんどん深まるクレバスを覗き込み、私はこの一年でいったい何をやってきたのだろうと不安になる。同じところをループしていたくはない。

「なにをおそれているんだろうね」
「もう止して。あなたはいつも前倒しで現れて焦燥感を与えるのね」

正月は手元の紅茶に砂糖をたくさん入れてスプーンでぐるぐるかき混ぜながら言った。
「焦ることはないし、何がきっかけでもいいんだよ。それにループもしてない、ぐるぐるしてるように思えるかもしれないけど、大丈夫同じところに戻ってるわけじゃない。螺旋階段なんだ。途中にクレバスがあるから、落ちないように気をつけてね」

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 ところでサウンドクラウドに南極のクレバスの中で録音された音があったから聴いてみて。


※このお話はファンタジィ日記部分のみフィクションとなっております

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