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【千字掌編】土曜の夜には熱帯魚が似合う……。(土曜の夜には……。#10)

「土曜の夜は独りぼっちが似合う」。そんな言葉が浮かぶ。夜、一人で灯りを消して窓から見える灯りを見ているとそんな気になる。家族がいる人間には孤独なんてないだろう。子供や妻や夫に振り回されて、文句を言う。そんな世界だ。
 でも、一人だけだとそんな相手もいない。お隣さんとは顔見知りぐらいだ。挨拶を少し交わすだけ。外も内も一人。仕事に行っても一人で仕事するだけだ。行きつけのBARでもあれば変わるのだろう。
 ふと、あの会社の帰り道にある、BARを思い出した。
「BARウイスキー・アンド・ローズ」。
 行ってみようか。そんな考えが頭をもたげる。
 どうせ、そこへ行っても一人なのに……。
 いつもの独りぼっちの私は言う。
 でも、違うかもしれない。
 別の私が思う。気づけば、部屋の鍵をかけて歩いていた。歩いて数分でたどり着く。看板を見上げる。シックな看板だ。何か怪しいケバケバしいものとは一線を画している。
 よし。
 掌を一度握って階段を上がる。普通なら降りていくところだが、このBARは少し階段を上がる。エレベーターを使って行く店はまた、別の店だ。
 ドアをそっとあける。
「いらっしゃいませ」
 カウンターでグラスを拭いている初老のマスターが言う。他に誰も店の人間はいないのだからマスターだろう。ちらほらと客はいるが、静かなものだ。趣味のいい夜のジャズを流している。あの音の聞こえ方はレコードだろうか。
「レコードですよ。古い1920年代の」
「そうですか。お酒を下さい」
「お酒とはまた漠然とした。そうですね。お客様には優しさとちょとした刺激のあるこのカクテルにいたしましょう」
 そう言ってマスターはシェイカーにリキュールらしきものを入れて振る。見事な手つきだ。
「もう、かれこれ40年はやってますかね」
「え?」
 まるで私の言葉が聞こえたかの様にマスターは言う。
「顔に出てますよ。すべて。会社もこの近くではありませんか? よく姿をお見かけしています。はい。お客様だけのカクテルです」
 さっとカクテルが出てくる。ほんのり薄紅色ででも一色ではない感じがする。一口飲むと軽い甘さの奥にスパイシーな刺激を感じる。
「単調な生活は単調でしかないですからね。たまにはこうして冒険なさるといいですよ」
 私の顔はよほど丸見えらしい。会社でもそうなのだろうか? 思いつつ、次の違う言葉を私は発していた。
「また、来てもいいですか?」
「ええ。こんな夏の夜には少し刺激がいりますからね。鮮やかな熱帯魚のように過ごすのもまた一興ですよ」
「じゃぁ、ここでの私の名前を熱帯魚にしてください。また来ます」
 お勘定を置いて立ち上がる。そんなに長居したわけではないが、ふわふわと夢心地だった。熱帯魚。自分がつけたニックネームは確か夏の季語か、なんて遠い昔に覚えた事を思い出しながら、帰り道を歩く。今度は熱帯魚らしく派手な服装をしようか、と思う。
「土曜の夜の一人きりは熱帯魚に変化する」
 俳句でもないが、そんな標語めいたことが頭に浮かんだのだった。


あとがき
また、出ました。「BARウイスキー・アンド・ローズ」。あそこ二階でしたか? 半分だけ階段を上がるとしてしまったんですが。あとで他の原稿を見ておきます。
マスターの謎めいた行動が便利です。滋養酒を飲むぐらいのお年で、とイメージが湧いてきました。でも、珈琲ショップ「紫陽花」の方が明確ですね。こちらではまだまだ出ていませんが。夜の営業を考えていなかったのでクロスしないのです。
では。来週もうんうんネタに詰まりながら、書きます。

ここまで読んで下さってありがとうございました。

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