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言葉を学ぶことは生きること(1)
毎日、英語、日本語、セブアノ語を使って暮らしています。あと、スペイン語もちょっぴり。どうやって学んだんだっけ? 習得/学習した順にならべて、ちょっとだけ、ばらばらっと振り返ってみようと思います。今回は、初回(全3回)で、日本語と英語について書きます。
便宜上、学ぶ目的を、1) 日常会話などの「生活言語」(BICS: Basic Interpersonal Communication Skills、基礎的伝達能力)と、2)学校教育を通じて習得する読み書き中心の「学習言語」(CALP: Cognitive Academic Language Proficiency、認知学習言語能力)に分けて考えてみます(参考:江戸川春雄. 2023.『英語と日本人:挫折と希望の200年』筑摩書房)。
日本語(母語):お母さんが国語教師で地獄だった
わたしはおそらくハイパーレクシアで、意味がわからなくてもばかみたいに文字を読むことができる子どもでした。日本語よりも先に興味をもったのはアルファベットだったのですが、母親は英語ができず、しかし国文科を卒業し国語教師の免許をもっていたため、幼少期から「作文」教育をされました。子どもごころに納得できてなかったのは、そのときに、「気持ち」(感情)を直接書いてはならず、情景を描写することを強制されたことです。わたしは気持ちを書きたいのに、です。
のちにそれが、日本的な作文教育であることを知りました(参考:『「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル』(渡邉雅子、岩波書店、2023年))。小学2年生くらいで三島由紀夫の『金閣寺』などを意味もわからないまま、めくるような子どもでした。また、意味もわからないままに、大量に文章を書くこともでき、小学校の教師を困惑させました。しかし、いっぽうで、話し言葉となると、もたもたしているという不思議な子でした。頭ぶんぶん、お口しーん。
英語(米語): 母語(お母さん)から逃げるために
父親が理系の研究者で英語(米語)が達者だったこともあり、生育家庭には英語(米語)があふれており、米国人の研究者や宣教師が頻繁にやってきました。母親は英語がとんでもなく苦手だったため、その劣等感から、わたしには赤ちゃんのときから英語の教材をあたえました。ただし、母親自身は教えることができないために、わたしは教材とともに放置されました。セサミストリートなどをみせっぱなしにし、英語教材をかけながしっぱなしにするという…….。
ふつうに考えて、そんなやり方で、わたしが英語を習得できるわけはないのですが、事実としては習得できてしまったので、なぜだろうと思い、調べてみたら、なるほど!! でした。わたしは神経発達症(発達障害、とくに自閉スペクトラム症)の子で、くりかえしを非常に好むため、信じられないほどその教材を愛して、ひとり遊びをしたのです(参考:『自閉症は津軽弁を話さない』(松村敏治、福村出版、2017年)、 『自閉症は英語がお好き?』(同、2024年))。また、母が英語ができないと発見し、英語は母親(過干渉)から逃れる最高の避難所となりました。
当時、「東京子どもクラブ 英語で歌う会」と呼ばれていたその教材は、現在も、「歌って覚える英語のおけいこ」(アカデミック出版)として販売されています。また、たまたま通った幼稚園がモンテッソーリ教育で、わたしの奇妙なまでの英語へのこだわりとひとり遊びを尊重してくれて、もっぱら英語遊びをしてすごせました(『発達障害児のためのモンテッソーリ教育』(佐々木信一郎、講談社、2021年))。この時期に、幼稚園の先生からフォニックスを習いました。そう、英語を読めるようになり、書けるようにもなってしまったのです、日本語よりもさきに。
こうした日常を通じ、わたしは、大量の音声を浴び、そのリズムの中でライミングを味わい、チャンキングしながら文法を見出し、語彙を獲得していったのです。会話や歌が中心だったので、わたしはまず、生活言語(BICS)として英語に親しんでいったと言えます。ふつうの中学校と塾で学習言語(CALP)として英語に出会いなおし、中学生のころには原書でサリンジャーなどを読むようになりました。しかし、リズムを楽しむことと、スタイル(文体)をながめることへのこだわりが強く、意味はあまり頭に入ってなかったと思います。小説を内容理解も含めて味わうようになったのは、高校生くらいからです。
日本語と英語: その後
日本語については、大学院に進学したこともあり、さまざまな文献を読み、批判的に分析し、自分の言葉で論理を組み立てるという訓練を積みました。日本語はつらくなかったのですが、経済学専攻だったので、英語を使うことがデフォルト、それはまあよしとして、数式での表現、図表での表現がこの世の終わりくらいつらかったです(めっちゃ苦手)。しかしながら、小さな声でいうならば、専門(経済学)よりも文学の本(英語の小説を含む)のほうをいっぱい読んでいました。そのためか、デビュー本は経済学ではなく、(正式には訓練を受けていない)文化人類学の作品となりました。わたしはテクスト(文字)に包まれると、とても情緒が安定してすごせるのです。
英語については、米国の大学に留学して生活言語(BICS)としても学習言語(CALP)としても使うということがあり、そこでだいぶ身体化されました。論文の読み書きを叩き込まれ、アングロフォン世界のロジックに慣れました。くわえて、中華系アメリカ人と2年ほどおつきあいし、その後、フィリピン人(ミドルクラス=英語を日常的に使う)をパートナー、つまり家族としたため、生活言語としての英語の度合いがぐっと高まりました。また、彼が読書家だったため、これまで以上にさまざまな文学作品を英語で読むようになりました。日比別居かつ事実婚で、子どもは日本で育てました。(パートナーは2023年5月に急逝しました)
「英語って植民地支配の道具っていう歴史的な側面あるよね」とわかりつつも、家族共通語&育児言語を英語としました。わたしひとり(つまり、目標言語の生活コミュニティなし)では子どもに英語を「いつでも日本脱出可能なレベル」まで獲得させることは無理なので、2歳からインターナショナルスクール(IB=国際バカロレア校でPYP、MYP、DPまで一貫教育)に入れて、そちらにお任せしました。ザ・放任ママでしたが、自分が好きという理由で読み聞かせは12歳ごろまでさせてもらいました。子どもがわたしを甘やかしてくれて、ありがたいです。なお、現在は、急いでいない限り、子どもとは日本語でコミュニケーションしています。
まとめ: 使っている時間が長く、学習言語でもあり、生活言語でもある
わたしの場合(英語の習得について)は、そういうことではないか、と思います。理由はよくわからないけれど、英語の文字や音がとても好きだった/好きだということもありそうです。また、学習言語(CALP)としてだけではなく、生活言語(BICS)として使わざるを得ない環境にあった/あり、そこに(日本語にくらべて)ひどいトラウマ経験があまりなく、おおむね幸せでよき思い出が多いこともありそうです。いずれにしても、生きるために絶対に必要だった言葉なのです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。