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螺旋

2年前、
イタリアに2ヶ月滞在していた時に遭遇した子犬との別れ。

オリーブ畑に、
ドンキー、犬2匹に子犬2匹、
猫4匹、たくさんのうさぎ、鶏を飼う当時のパートナーとの生活。
今も連絡取り合う彼だけれど、
気持ち的に関係性は友達に近くなった彼との今。
たくさんいろんなことを学び、
このときの子犬の死、
そして、実はこの後すぐもう1匹の子犬も、
お母さん犬も死んでしまい、
去年訪れたときにはお父さん犬も驚くほど衰弱していて、
私がいた2ヶ月の間に亡くなってしまった。

私から見たら、
犬を飼うことの価値観が違い過ぎて、
以下に記した子犬の件は序章に過ぎず、
そのあと、全ての犬に対してできることがあったのにしなかった彼の態度が私を深く憤らせたのも、一緒にいれないなと想った原因の一つなんだな、と今思い返す。

お父さん犬に関しては、
去年訪れた時、
私は何度も何度も訴えた。
この子、もう長くないよ、と。

何度も犬を飼い続けてきた私には、
なんだか死の1週間前くらいから臭いが変わることを体感的に覚えていた。

彼はこの犬を親友のように言っていたからこそ、
病院に連れて行くと何度も話していたからこそ、
彼が亡くなる前日に、
私は死期が明日と目を見ていたら感じてしまい、行くなら今日だよ、今の状況をチェックした方がいい!と強く言ったのに、
彼はその日チェックに行かなくなった。

そして、
次の日今日薬もらってきたからこれで大丈夫、と話す彼。
畑に着いたら、
犬はいつもと違う場所を選び力尽きていた。
私は前日から犬を見ては涙が止まらず、
泣き尽くしたと思ったのに、
またこの日も涙が止まらず。

Facebookに2年前の思い出として、
以下に貼り付ける子犬の投稿が出てきて、
これはちゃんとまた思い出した方がいいなと、
ここに記させてもらう。
そして、その後に発生したあらゆる出来事や気持ちも付け加えて。
自分のあっ!と感じる直感は必ず大事にしていきたい。
あとで後悔しないように。
この犬の件に関しては後悔ばかりだけれど、
だからこそ、自分への戒めとしてここに記す。

そして、彼が悪いわけではないことも。
お互いの大事にしていること、信じていることが違う、故に起きたこと。
だからと言って関係性を終わらせるのは違うと私は想っているので、
したいときに連絡する、
そんなスタイルを貫いている。
一度深く惹かれあっているのなら、憎しみ合いもする。
離れる必要があるときもある。

待つ。

また軽やかに混ざるかもしれないし、
自然と離れるかもしれないし、
わざわざ今が違うからと切ってしまうのはやめよう、が私が想う出逢った人との関係性。
それも忘れないようにここに記す。

以下2022年10/8の投稿より☟☟☟☟


このとき、
出発前日から子犬二匹の内の一匹がかなり衰弱して、死を待つことを選んだときは本当に辛かった。

まだ治るかもしれない。
それでも、
自然の循環を選ぶというのは、
ときに残酷に感じてしまうときがある。

そのまま自然にして、
何も手を加えなかったら、
亡くなっていくわけだから。

それはきっと、
地球にしてみたら生も死もいつも平等に扱った結果という淡々としたもの。

だけれど、
心を持つ私達は、
感情という自分目線からの色付けで、
生よりも死を重く捉えてしまう傾向がある。

それ自体、良い悪いではないのに、
どうしても論理的思考や助けなきゃというエゴが発動して死が悪いもののように感じてしまう。

例え、このとき病院に子犬を連れて行って今回のこの症状は抑えたとしても、
本来何かを加えて、
お金を払って治すという行為自体が自然ではない。

生き返れたとしても、
それを加えられた身体は一時しのぎで助けられたかもしれないけれど、
自力で治すという機能は劣ったことになる。

何かを加える、得るということは、
何かを失うことだから。

一度弱れば、また病院が必要になる。

また何度も何度も子犬を病院に連れていくようになるんだとしたら、
自力で治れないんだとしたら、
死んだように生きるようになりかねない。

本当に、
その子犬にとっての幸せなのだろうか。

その子を助けたことは私達のエゴであり、
本当にこの子を救いたいのだとしたら、一瞬の対処ではなく、根本治療。

地球の仕組みである循環に従う方が、
残酷だけれど、
本当の優しさなのかもしれない。
だから私達は死に、生まれる、
を宇宙誕生から永遠に繰り返してきた。
永遠の循環。

これは私が猫を飼っていたときにも感じたこと。

18歳まで生きた猫だけれど、
その5年前、前足に腫瘍を見つけて、
その日のうちに切断するか、
そのままにするかの決断を迫られた。

あのときの私は、生きることだけが全て。
彼に生きてほしいという完全に私達家族のエゴで彼の前足を切断することにした。

それから腫瘍はとれて、
5年生き延びたけれど、
その5年間、今までできていた狩りが全くできなくなった。
近所の猫に喧嘩で負けて傷を負って帰ってくるようになった。
うまく歩けないのでゴロゴロするしかないから太ってきた。
そして、最終的にはまたがんの腫瘍が見つかり、そのときはもう、高齢なのもあり摘出ではなく自然に任せて最後苦しい日々を過ごさせてしまうことになった。

私達は本当にこの子にとって幸せな生を与えられたのだろうか。

与えたようでいて、実は奪ってしまった気がしてならないモヤモヤとした最後だった。

私達にとっては幸せでも、
きっと彼の幸せではなかったのではないか。

小さい時から家ではたくさんの動物を飼い、死を体験してきたので、
悶々とあらゆる感情になる毎回の最後のお別れ。

今回の子犬に対しても、
何かできるのに何もしない自分に歯痒さがあった。
けれど、
なにもできないこのやるせなさを、
自分の心にTattooのように傷として深く刻み込もうと想った。

深く傷をつけたら、
大事な時にちゃんと痛くて立ち止まれる。
本当にそれでいいのかと、
自分の深部に行き着くための傷。

痛みは悪いだけのものじゃない。
痛いから優しくもなれる。

生は淡々と流れてしまいがちだけれど、
深く刻み込まれると、
生と死が同等に深みをまして、
地球の芯の循環に戻っていける。

この残酷さでもって、
生と死を地球の循環から捉えていける。

彼も話していたけれど、
死は葉っぱが舞い落ちることと何も変わらない。

私達の皮膚が毎日垢となって剥がれ落ちていくことと本当は変わらないこと。

どうしても、感情というものが、
それを持つ者同士を共感という代物で結びつけて離さない。

だから葉っぱには可哀想と想わないのに、犬には可哀想と想ってしまう。

子犬をいつもとは違う場所に横に寝かせ、身体を包んで私達は去ることにした。

そしたら次の日、
子犬はいなくなっていた。

どうやらこの山にいる獣が持っていったようだと二人で結論付けていたけれど、
私がイタリアを旅立ったあと、
彼から子犬の亡骸を見つけたと連絡がきた。

どうやら、子犬は自力でそこから抜け出して、兄弟や親のいるエリアで力尽きていたらしい。

残酷極まりないことをしてしまった、、とまた自己嫌悪に陥る。

同じエリアに猫がいるから死んだら食べられるのではないかと、
エゴで動かしてしまったけれど、
子犬はそこにいたかったんだ。。

猫に食べられるのもまた循環の一部ではないか、と可哀想が作動してしまったことで余計なことをしてしまったこと、胸が痛すぎる。。

しっかりとこの傷を噛み締め、
痛みながら生きていく。

この苦しさと悲しみとごめんね、
をしっかり刻んで、
痛いけれど、生きているからこそ痛みを感じられるんだとまた深く刻む。

これでよかったのか答えはわからないけれど、生と死がまわっていかなければ、
この地球は循環を止めてしまう。

生きている限り、
必ずどこかのタイミングで私も死ぬのだ。
そしてまた違う形で循環していく。

イタリアでの2ヶ月の滞在を締めくくる。

命の在り方を、
この時の感じたこと、想いを忘れないように、
備忘録として記す。

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