2年前、 イタリアに2ヶ月滞在していた時に遭遇した子犬との別れ。 オリーブ畑に、 ドンキー、犬2匹に子犬2匹、 猫4匹、たくさんのうさぎ、鶏を飼う当時のパートナーとの生活。 今も連絡取り合う彼だけれど、 気持ち的に関係性は友達に近くなった彼との今。 たくさんいろんなことを学び、 このときの子犬の死、 そして、実はこの後すぐもう1匹の子犬も、 お母さん犬も死んでしまい、 去年訪れたときにはお父さん犬も驚くほど衰弱していて、 私がいた2ヶ月の間に亡くなってしまった。 私から見
人は一瞬で変わる。 それは私が変わったとき、 そして存分に想いを込めたとき。 日常のことにこそ、 心底に想いを込めてみる。 心のあれこれを洗いざらいさらけ出して伝えてみたら、 それ以上の何かをキャッチしてくれていた。 伝わることなんか期待してなかった。 ただ自分が伝えたかっただけ。 相手のためではなく、 自分のために。 それが結局は一番早く相手のためになるんだな、としみじみ。 数年前にお父さんとお母さんの恋愛の話を聞いたこと、ふと昨日急に想い出した。 お父さんは、 お
この世界は、 全ての存在とどう関わっているか、 繋がっているか。 そして、その関係性は、 流動的で、留まるものでは無い。 その都度その都度、 同じ人とでもモノとでも、 逢う度に関係性は違うものであることを、 理解しておく。 人間の世界では、 関係性や在り方に名前をつける。 職業や年齢や結婚や間柄etc。 全ての間は流動的に漂うのに、 ハッキリさせたがる。 私の仕事は〇〇です。 私は〇〇歳です。 彼(彼女)は夫(妻)です。 人には常にその仕事だけでは語れない自分をた
朝のランニング👟 朝の5時過ぎから、 夜明けを感じる朝の会を日々決行し、 雪の日も、雨の日も、 歩くことは、 福島に居る間の日課としてずっとやっていること👣 腰だけでなく、 全身刺激を与えるべく、 昔のようにランニングを導入🏃 初マラソンで4時間を切るため、 毎日トレーニングしていたときは、 毎朝10〜20km走るということをしていたけれど、 今は1、2km走るだけというなんともゆるい自分に変身して、 やり過ぎない、だけど、ちゃんと負荷をかけることで骨が弱くなりすぎない
懐かしさに返る。 海はいつも無にする、自分を。 自分なんてないのに、 持ってしまっている自分を。 波の荒々しさの中に、 夜の森の静けさに、 空の広大さに、 自然の本質を視る。 それは美しさだけではなく、 解明できないわからないもの。 黒く、暗く、想像できない存在。 彼らはそのわからないを抱えたまま生きているし、そこをわかろうともしない。 あるがままで生きるから、 美しいのだと。 そのわからないが、 自分のほとんどを成す。 だから定義できないくらい、 自分なんかわから
努力はしない。 しようとした時点で違うなにかになろうと努めようとしてるってことだから。 自分でいるために、 自分で在るために、 努めようとしたり、 頑張ろうとする必要はないもの。 努力する、頑張る、力む。 それを迫られた時点で、 自分をそこに追い込んだ時点でずれていく。 自分でいることは、 そのままでいること。 自分でいるために努力するんじゃなくて、 努力しようとしていないか気づくこと。 あれ、なんか違うって小さな声や違和感に気づき続けること。 自分でいるために必
自分の在る世界が自分の現実なんだと、 自分に叩き込ませるために、 あらゆる物語をシャワーのように浴び、湯船のように浸かる。 映画も本もフィクションもノンフィクションも、なんだっていい。 物語の種類がこれだけあることを身に染み込ませる。 そうしたら、 違うことは当たり前なんだと、 勝手に自分が自分に納得していく。 "大丈夫だよ、あらゆる物語の1つでしかないんだから。 より喜劇に行こうではないか、マイストーリー。" 現実は1つだけではなく、 様々な物語が生命の数程あるのだと
擦り切れてこれ以上着れないようなシャツやコートやスカート。 使える部分だけを再利用して、 アップサイクルしている今♻ そのときに使う針、糸、ミシン、端切れ。 全部知り合いから頂いたものだ😳😳😳 最近ミシンの調子悪くて手縫いが多いけれど、ハンドミシンでさえ頂きもの。 顔に使うクリームや化粧水や洗顔も知り合いが作ったもの。 歯磨き粉や塩も知り合いに頂いたもの。 今使っているパソコンや携帯、 イヤホンや充電器も頂いたもの。 読んでいる本、 使っているバッグ、 ネックレスや帽子
付属品という名の常識ではなく、 自分自身の腹からくる声で。 "自分で判断する''とは、 138億年の宇宙誕生から蓄積された私達の身体を作る細胞一つ一つの声からの判断。 内臓が勝手に動くように、 自分にとっての適切な判断は、 頭で考えて立ち止まるものではなく、 スーッと滞りなくしてしまうもの。 そう、やってしまうもの。 それが本当の自己判断。 頭の中では忙しなく あーでもない、こーでもないと言ってくる。 それでも、 いかに腹の腹の内臓の、 太古の深みから来る意味のわから
今まで得たあらゆる情報を一旦捨てる。 これはこうだからってゆう常識は、 例えそうであってもとりあえず捨てる。 そして、体で感じた感覚・経験からの学びを自分の情報として取り込んでいく。 ストレッチは体に良い、 は頭の中で認識している情報。 体の声を聴き始め、 ストレッチを始めること数年。 脳みそから、 ストレッチは体に良い という情報は消え、 体が自然とそれを吸収し実行してゆく。 体感は無意識で必要なものを取り入れていく。 ストレッチしなきゃ、じゃなくて勝手にしている自然体。
5/15、沖縄返還50年。 そんな節目に沖縄に居るのもまた不思議な感覚。 波照間に居た時に、 その日はなにかお祭りのようなことをするのか、と聞いたら、 地元の人はそれよりも神事の行事の方を大事にしている人が多いかも。 という話。 人の枠組みで決められた土地というものを越えて、 神道での神事は、 自然に神が宿るというもの。 自然と密接に生活する人々にとっては、 そこかしこに神が宿り、 太陽が登っては拝み、 雨が降っても拝み、 どんな状況にも対応して生きていくこと。 自然と
(2021.5.9書) 地球があるがままの姿に成っていく。 その一瞬一瞬を感じる日々。 それは昔の地球に戻るでもなく、 全く新しい地球に生まれ変わるでもなく、 今までとなにも変わらない、 ちょっとずつの変化。 この環境を生き抜くために、 脈々と変わり続けてきた地球の46億年間。 そこに良い悪いなど存在しない。 一度として同じ地球など存在しない。 私も生まれてこの方、 同じ私など存在しないように。 環境に対応したモノだけがこの地球で生き残る。 今、生きづらさを感じてい
(2019/4/24書) 美しさ。 小さい頃から、ただただ、 何も手の入れられていない大自然を目の前に生きていたら、 美しさの定義は、今とはだいぶかけ離れたモノのことを言うと想う。 私たちが美しいと想うもののほとんどが視覚からの情報。 そして、小さい頃から自分で育んできた感覚で美しいと判断するのではなく、 周りが綺麗と言うものを美しいと判断するのが世の言う美しさ。 美的感覚って本来とびきりにみんなばらばらな方向に飛び抜けるものなはず。 だって、みんなこんなにも違うのだ
幻想によって、 あらゆるものに意味が付加されて行く。 私が幻想と呼ぶものは、 この世界の全てにおいて。 個々の思い込みや意味付で、 同じ言葉にも真逆の意味を含むから。 だから私はこの世界こそ幻想であり、 自分がどこを見ているか、 どう見ているか、 どう見たいのか。 それこそが、世界であり、 確実なものなど自分の中にしかなく、 他者と擦り合わせたら、全く違う世界を生きていることを思い知る。 死という言葉も、 人によっては、 悲しむこと。 お祭りをすること。 次の誕生を祝
あまりにも急ぎすぎた。 どの生物との関係性も支配ー被支配の上下関係になりすぎた。 そして人間だけで完璧になろうとした。 これでは共生にならない。 これでは個になるのみ。 個になるとどうなるか、全てが敵になる。 だからこんな状態に陥るのだよ。 人間だけがおかしいくらいにあたふたしている最近。 46億年間、地球は生きている。 地球が誕生してから大量の生物達が、 そして地球自身が、 じっくりじんわり恐ろしいくらいそれぞれのペースで生を育み今に至る。 その間、地球内部・外部の変化
どんなときでも唯一生き延びれる職業があるとするなら、 それは"あなたがあなたのままで在ることをする"、という職業。 自分探しなんてしても探せないよ。 もうそこにあなたは居るのだから。 探しにいくんじゃなくて、 あっ!もう自分居るじゃん!って "気付くこと"をすればいいだけなのだから。 それに"気付かなければ"、 どこに行ったって自分を探せられるわけない。 こんな近くにいる存在を、 すぐ近くで見つけられない人が、 更に遠くに探しに行って見つけられるだろうか!? 気付けるだろう