生と死
幻想によって、
あらゆるものに意味が付加されて行く。
私が幻想と呼ぶものは、
この世界の全てにおいて。
個々の思い込みや意味付で、
同じ言葉にも真逆の意味を含むから。
だから私はこの世界こそ幻想であり、
自分がどこを見ているか、
どう見ているか、
どう見たいのか。
それこそが、世界であり、
確実なものなど自分の中にしかなく、
他者と擦り合わせたら、全く違う世界を生きていることを思い知る。
死という言葉も、
人によっては、
悲しむこと。
お祭りをすること。
次の誕生を祝うこと。
死という概念でここまで幅が広がる。
死とはこれ!と、
強烈な思い込みを抱いていたら、
両極端の意味を含むことに抵抗があるかもしれないけれど、
自分の持つ死への概念は、
77億分の1つの考え方でしかない。
と、人の数だけひとつの概念にも多様性があることを受け入れると、
全ての概念は、
不安定に、
曖昧に、
人の数だけ変貌し、
当たり前や普通なんてことが存在しないことを知る。
私の世界では、
死のイメージも、
生のイメージとそっくりそのまま同じことが言える。
生とは、
苦しむこと、
悲しむこと、
喜ぶこと、
楽しむこと。
そして死ぬこと。
この全てを含む体験が愛するということ。
美しいことだけでなく、
この世にある全ての存在が愛。
生きること=愛すること
人の数ほど人生の捉え方は幾数にも変貌し、
これ!と言いきれる一般的な答えなんてものはない。
自分に対する答えは自分の中に在るけれど、
その答えが他人にとっても答えにはなるということはない。
だから人に聴くのではなく、
自分に聴くこと。
自分に聴くとは、行動すること。
行動の先にしか、自分に対するそのときの答えは見つけることは出来ない。
しかも、答えは変化する。
そのときはそれが答えでも、
それを一旦越えると、
次の答えは違うものに変わったりする。
それくらい自分自身のことも、
私は''こんな人''と定義できない不安定なもの。
全て移り変わる。
それが死を含めた生きるということ。
死んでもうつろいゆく。
形を変えて生き続けるのだから。
あなたを燃やせば空気に返り、
誰かがその空気を吸うだろう。
土に還れば、
微生物や動植物の餌になり、
それぞれの、命を生かせていく。
身体としては死んだけれど、
リサイクルされて、
地球のどこかに還元されていくこの地球システムでは、
形は変われど私達は一生死ぬことはない。
だから私達は、
宇宙誕生からこの宇宙に同時に発生し、
死んでは生まれてを繰り返して、
様々な形に変貌しながら今に辿り着き、
また形を変えて永遠の命のサイクルにもどり行く。
一瞬という今この形の命と、
永遠という全体の命の育み。
一瞬と永遠は一緒。
アスファルトも、
原子力も、
添加物も、
私も、
実は全て同じ材料で作られ、
使い方や人の捉え方で栄養にも毒にもなりうる世界で一緒に存在している仲間。
さぁ、どう捉えようか。
幻想であるこの世界を、
私はどう捉えるか。
答えは私の中にしかなく、
行動を繰り返す先にしかない。
故、自分と対話せよ。
人に答えを求るな。
この身体で生きる限り、
私は私のことをする。
宇宙全体の中で、
私はどこの部品担当かを探り、
経験を繰り返すのみ。
生きることが怖い=死ぬことが怖い
今を生きていたら、
恐怖は今から離れた幻想の中で生まれることを知る。
やってもいないものほど過度に恐怖を想像する。
実際に行動してみると、
その渦中で怖いということはあまりない。
生きることが怖いのはわからないから。
死ぬのが怖いのは死んだことがないから。
わからないことにいざ、飛び込め。
わからない、を経験し、
わからない、を体感することが、
想像以上に楽なんだと知っていく。
生きることが楽になれば、
死への恐怖も緩和されていく。
死ななければわからないことを知るから。
この身体では1度しか体感できない死。
考えてもしかたのないこと。
全ての生命に組み込まれていること。
いつかは必ず訪れるもの。
そこにどんな概念を吹き込むかは、
自分が今どう生きているか、だ。
死ぬことはわかった。
ただどう死ぬかはわからない。
(自分でも選べるし、
生活習慣から招くこともあるけれど)
わかるのは、
今どう生きるかを選べること。
今この瞬間、
どこを見て、
どう生きたいか。
不自由と自由の絡み合いの中、
さぁ、私は何を選ぶ。
最近、
周りでちらほらと死を迎える友達がいる中、死とはまた巡ることを自分に刻むための言葉。
生きても死んでも巡り巡るリサイクルの星、地球。
細胞が死ぬから、また新しい細胞が生まれてこの身体が生き続けられるように、
この地球の中でも私の死があるから、
地球という大きな生が在ることを胸に刻み、
生きている間は、
心行くまで堪能するのみ。