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45. 放牧を見し人偲ぶ隠岐の秋
信州に負けず、出雲の蕎麦も美味しい。出雲の蕎麦を後のお楽しみにして、私たち3人は境港から隠岐の西之島に向かった。フェリーで約2時間半掛かって西之島の別府という港に着いた。
45.放牧を見し人偲ぶ隠岐の秋
目の前に見付島という小さい島があった。見付という名前から、見張りを置いた島であることが想像できる。聞くと1332年(元弘2年)この島に流された後醍醐天皇の動きを見張るための場所だったという。そして、港近くの黒木御所跡が後醍醐天皇行在所だと言われている。行在所跡は、隠岐の別の島だという説もあるのだが、地元では西之島の黒木御所跡が真の行在所であると固く信じられている。確かに黒木御所跡の付近には後醍醐天皇の側室である三位局の屋形跡や、後醍醐天皇腰掛けの石などがあり、行在所伝承を語る史跡には事欠かないのである。後醍醐天皇は1年後には見張りの目を掻い潜り、有力者や島の人たちの協力を得て島からの脱出に成功し、鎌倉幕府を倒して建武の中興を成し遂げている。3年間という短い期間ではあったけれども親政を行った。後醍醐天皇を祀る黒木神社には「建武中興発祥之地」という碑が物悲しくも誇らしく立っている。後醍醐天皇が西之島に流されたのが今から690年前で、別府の港は小さな船着場と迫る山、粗末な民家がある程度だったのだろう。それでも島の人たちは後醍醐天皇を静かに、そして敬いの心を持って迎えたに違いない。小泉八雲は、
「後醍醐帝の霊を祀る神社は西之島の別府という半月状の山々の麓の入江を縁どるように、一本の長い通りに沿って茅葺の家々が並んでいる絵のような漁村にある。この土地の風俗の淳朴さ、正直で健康なつつましさは隠岐のなかでも誠に驚嘆に値するものである。」
と、『伯耆から隠岐へ』という旅行記に書いている。小泉八雲が隠岐へ旅したのが1892年(明治25年)の7月で、後醍醐天皇が島に流されてから560年が経っている。港には茅葺の家々が並び絵のような漁村の体をなしていたというから、風景は随分と変化していたのだろう。それでも後醍醐天皇を迎えた島の人たちの気持ちは明治になっても変わっていなかったようである。
私が西之島に渡ったのは、2022年の10月である。小泉八雲が訪れてから130年が経っている。茅葺の家々は今風の建物に変わっているが、島の人たちの純朴な気持ちは変わっていなかった。タクシーの運転手や宿泊先の女性の話し振りは穏やかで優しい。帰りの船を待つ間、別府港の近くの店でお好み焼きと隠岐の烏賊と鯵フライを食べながら3人でビールを飲んでいたら、窓ごしの海に光がキラキラと跳ねているのが見えた。10月にしては暖かい日の光が、海面に反射してゆっくりとしたリズムで踊っているのだ。この静かな光のダンスを後醍醐天皇も、小泉八雲も見たとすれば、島の人たちの気持ちだけでなく、海と光の風景も数百年の間変わっていないのだと思った。店を出て港へ歩いて行くと、ある店の前に「飛行場の浜」と書いたパネルがあった。パネルには「黒木飛行場跡」という文字と水上飛行機が着水している写真が載っていた。1935年(昭和10年)から2年間、松江と別府港を水上飛行機が飛んでいたという説明が添えられていた。この水上飛行機があれば後醍醐天皇の西之島脱出も楽だっただろうなと、ほろ酔いの頭で考えた。
タクシーの運転手が、西之島には牛が700頭、馬が100頭いると言っていた。島の多くの地域で放牧されているという。島の人口が2,600人というから、合計3,400のうち800は牛と馬なのである。おかしな表現だが、4人に1頭は牛か馬ということになる。隠岐の畜産業は、畑作と牛馬の糞という自然循環型の伝統的牧畑農業から始まった。13世紀末頃にできた『吾妻鏡』には「隠岐島の牧畑」という表現が出てくるというから、後醍醐天皇も西之島で牧畑の牛や馬を見ていたかもしれない。小泉八雲は隠岐の牛や馬について、
「牛は出雲の仔牛とさほど変わらず、仔牛となると山羊ほどの大きさである。馬の方は、馬というよりもポニーと呼ぶべきであろうが、隠岐の自慢の種で、大変小さいが頑丈なのである。」
と書いている。小泉八雲が訪れた頃は、まだ牧畑が行われていたはずだから、肥料を産み出す牛や馬は小型種だったのだろうか。運転手の話では、自然の放牧地にある草を食べる隠岐の牛や馬は、急な斜面を移動することで足腰が強く肉質も良くなって、食肉としての評価が高いのだという。今では、牧畑はなくなり畜産業が漁業や観光と並んで島の重要な産業になっている。フェリーにとっては人や車や物資だけでなく、牛や馬も大切なお客様なのである。
別府の港に松浦斌の銅像があった。松浦斌は1885年(明治18年)に、境港と隠岐を結ぶ航路を創設し木造蒸気船を就航させた人である。1892年に、小泉八雲が境港から乗った隠岐西郷丸は鋼鉄製蒸気船だから、7年の間に木造から鋼鉄製に進化している。小泉八雲は「百マイルを五時間で進める」と書いているので、時速約32kmの計算になる。フェリーよりややゆっくりしている程度だが、時速74kmの高速船には追いつけない。島後島には飛行場もあって、伊丹空港と出雲空港を経由して日本各地と結ばれている。島の人にとって、フェリーや高速船、飛行機は非常に重要な輸送と移動の手段である。その昔は水上飛行機も飛ばしたのだから、本土と繋がるという思いが、島の歴史の一端を作ったと言ってもいい。高速船で本土に戻り、3人で古代出雲の話を肴にしながら少しばかりの日本酒を飲み釜揚げ蕎麦を食べた。湯気だつ蕎麦のやさしい喉越しが、船旅の疲れを癒してくれた。少しばかりの日本酒だけでなく隠岐の風土と情景が、ほどの良い蕎麦前になった。
●『伯耆から隠岐へ』は、 講談社より1990年に発行された小泉八雲著(平川祐弘編)「明治日本の面影」に掲載されている。
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Eijyo様からお蕎麦に関する「新たなクラブ」を立ち上げられたとの連絡をいただきました。大変興味深く、面白そうなクラブです。