35. 朝焼けに溶け染まりつつ波ゆらら
青い朝顔が物悲しさのイメージに繋がるとすれば、紫の朝顔はどうだろう。三島由紀夫は、紫の朝顔を使って妹の事を書いている。いや、描いている?
35.朝焼けに溶け染まりつつ波ゆらら
三島由紀夫の短編に「朝顔」がある。朝になると花が開いて、夕方には萎んでしまう朝顔は、短い命を象徴する花である。十七歳で亡くなった妹のことを不思議な形で書いている。それとも、筆を使わずに言葉で幽玄の世界を描いたのだろうか。
「夢の中では妹は必ず生きていた。」と書いたあと「妹の顔は暗くてよく見えない。きているものの柄もよくわからない。子供のような浴衣を着て、黄色い兵児帯をしめている。『どんな柄、見せてごらん』と私が言った。妹は黙って燈下に立って袖をひろげて見せた。鮮やかに大きな紫の朝顔が染めてある。妹が五つ六つの時分に着せられていた浴衣である。」
紫の朝顔柄の浴衣と黄色の兵児帯。紫と黄色は補色の関係にあり、明度差も大きく互いにその色合いを強調し合う。補色という鮮やかな組み合わせと朝顔の柄を身につけたなんとも儚い妹の関係も、紫と黄色という補色に重なるように補色的である。さらに、同じ親から生まれた兄と妹の関係も補色的な香りがする。補色の輻輳が立体的な絵画のように見えてくる。補色の一方の色をしばらく見つめたあと、白い紙などに目を移すと残像として補色のもう一方の色が現れるのだが、これを心理補色というそうだ。日常生活の中にも、心理補色の効果が利用されているという。牛乳の紙パックに濃い目の青色が使われるのは、紙パックから牛乳を注いだときに濃いめの青の補色である黄色から橙色あたりの残像が白い牛乳を濃厚に見せる効果があるからだと、聞いたことがある。三島は心理補色の効果を使って、読み手の頭の中に言葉で絵を描かせようとしたのかもしれない。
補色といえば『印象 日の出』というモネの絵が思い浮かぶ。印象派の名称の由来ともなった有名な絵であるが、この絵は橙と紺青という一対の補色だけで描かれた絵としても知られている。小田茂一は『色彩のメッセージ 三原色と補色の絵画史』で次のように書いている。
「画面を大胆に上下に二分し、一対の補色だけで画面全体を描出している。反対色にある二色それぞれを、筆のタッチによって濃淡をつけながら置いていくことで、画面を構築したのである。水面と対岸、そして水面をいく船のシルエットを紺青で描き出し、生まれたばかりの鮮やかな太陽と朝焼けの空、水面に揺らぎながら反映する光の帯を橙で描いている。」
モネは意識的に補色を使い筆触と呼ばれる点描のようなタッチを使い色彩理論を駆使して光と影を描いたのである。高橋文子はモネの『ポール・ドモアの洞窟』を使って中学生に対して補色対比の効果を理解する授業を試みているのだが、とても楽しそうな美術の授業である。授業風景は『印象派絵画によって光と影の補色対比とその効果を理解する授業実践』としてまとめられている。印象派絵画の概論講義、『ポール・ドモアの洞窟』の鑑賞と意見交換、補色のコラージュと印象派風デッサンの作成と続くのだが、補色を使うことで異なった色調の光と影を描き、奥行きと素材感を表すことを実際の有名な絵画から学ぶことの面白さを生徒も感じ、その感想も感性に溢れている。
「影の色を見る目を磨くことができた。例えば、ここの席から見える影、机の下の部分は青や緑、もっと近く自分の机に置いてある作品の影は少し黄色いかなといったかんじで影に自分で色付けすることができた。(中略)今までの授業で色々な分野の美術を勉強してきたけど、今回は今までも特に自分の世界観をよく表現できていたのかなあと思った。」
創造することの楽しさが絵を通じて分かると、絵を見る目が変わるのだろうなと思う。こんな美術の授業を受けたかった。この授業で重要なことは『ポール・ドモアの洞窟』を茨城県立近代美術館が所蔵していることであり、茨城大学教育学部附属中学校で行われた実践授業だということである。生徒たちは本物のモネの絵を見て授業を受けたのである。美術館が所蔵している美術作品の「生」を見ることの大切さは言うまでもないし、それを見て専門家の話を聞きながら実作をするというなんとも羨ましい授業なのである。モネは海の絵を描こうとするが、パリから鉄道で日帰り圏内のノルマンディーは、リゾート地として有名になり観光地化していたため、自然の風景が残っているブルターニュ半島の南にあるベリール島まで足を伸ばした。そこで1886年9月から11月末までの約75日で39点の作品を残した。そのうちの一つが『ポール・ドモアの洞窟』なのだが、ここで描いた絵の作風は他のものとは趣が異なっている。ほとんど人が描かれておらず、波や風や岩という剥き出しの自然だけが描かれているのだ。心境の変化があったのだろう。生徒たちはモネの心境の変化も辿ったのだと思う。この授業を受けた生徒たちが羨ましい。
●「朝顔」・・・三島由紀夫 『ラディゲの死』 新潮社 2009年(初版は1980年)に掲載
●『印象 日の出』・・・クロード・モネが1872年に描いた絵画。ザ・印象派というべき作品。
●『色彩のメッセージ 三原色と補色の絵画史』 小田茂一 青弓社
2015年・・・互いを残像として感じられる色を「色相環」の向かい側に配置することで補色関係が明らかにされたのが1809年である。モネの『印象 日の出』は、その63年後に描かれている。
●『ポール・ドモアの洞窟』・・・クロード・モネが1886年に描いた絵画。フランス・ブルターニュ地方の「美しい島」という意味のベリールの海岸を描いた作品。
●『印象派絵画によって光と影の補色対比とその効果を理解する授業実践』 高橋文子 茨城大学教育学部附属中学校 2011年
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