1. 陰影の奥に仄かな白障子
初めての投稿です。よろしくお願いします。
「素晴らしき哉、読書尚友」。読書尚友は、本を読んで作者と友達になることだと言う意味の中国の言葉です。
蝶々が花から花へと飛び回るように、本から本へと頭の中で旅をするように遊び回って行きます。そして、その場所に行ってみてさらに想いを巡らせ、勝手ながら作者と友達になったつもりでいろいろなことを想像します。
そんな「頭の中の旅」のことを書いてゆきたいと思います。
初回は、「陰影の奥に仄かな白障子」で、谷崎純一郎の春琴抄から始まり、しりとりのように話が広がって続きます。どのように展開していくのかは、私にも想像がつきません。もし、興味がありましたらご一読頂ければ幸いです。
1 陰翳の奥に仄かな白障子
「私は春琴女の墓前に跪(ひざまず)いて恭(うやうやし)く礼をした後検校の墓石に手をかけてその石の頭を愛撫しながら夕日が大市街の彼方(かなた)に沈(しず)んでしまうまで丘の上に低徊していた。」
『春琴抄』は、谷崎潤一郎が春琴と温井検校(佐助)の墓を探して、上町台地西側にある「下寺町の浄土宗の某寺」を訪れるところから始まる。春琴は大阪の道修町にある薬種問屋の娘として描かれており、
「奥深い部屋の垂れ籠めて育った娘たちの透き通るような白さとあおさと細さとはどれほどであったか田舎者の佐助少年の眼にそれがいかばかりに妖しく艶に映ったか。」
と、店の奥深さと娘たちの美しさが並べて書き進められる。1933年(昭和8年)6月に発表された『春琴抄』は、その年の12月に世に出る『陰翳礼讃』を先取りするかのように、日本家屋の暗さが娘の肌の白さを美しく魅せることに触れている。
春琴抄に書かれた大阪の商家の暮らしぶりは、道修町に今でも残る旧小西家住宅の暮らしぶりがモデルとなったと言われている。旧小西家住宅は1903年(明治36年)に造られた薬種を扱う船場の商家で、今でも新しいビルや店が並ぶ大阪の市内中心部にあって、胸を張って頑として譲らぬ潔さを見せて建っている。その内部はいかにも明治に作られた商家らしく骨太の柱や梁が見え、派手ではないが趣向を凝らした作りとなっている。50人ほどの家族や使用人の食事を賄う竈(へっつい)には曲面のレンガが使われていたり、欄間の細工や障子の桟そして照明器具の形が洒落ていたりと、その趣味の良さが現れている。一階には店と主人家族の居宅、さらに蔵と庭があり、店員の寝起きの場所は二階にあった。当時の店員心得の中には「平日終業後ハ宿直員ノ命ニ従ヒ各自ニ勉強スルコト」というのがあり、仕事柄化学的知識を習得することが必須だったことが推測される。暗くなっても照明は十分にないし、冬は冷たく夏は暑い部屋の中で勉学に励む店員の姿が目に浮かぶ。旧小西家は堺筋という大阪を南北に通る主要道路にも面しているのだが、堺筋側には出入口はない。店舗への主たる出入口は道修町側なのである。堺筋側には貸間があったのだが、1911年(明治41年)に道路拡幅により「軒切り」が行われその部分は市に提供している。堺筋側の屋根の形が不自然なのはそのせいである。軒切りされる前の写真でも堺筋側には主たる出入り口はないので、薬種商にとって道修町側にきちんとした店構えを持っていることがいかに大切なことだったのかがよくわかる。家屋の模型をみると、屋根の上には物干台があって、春琴を慕う佐助が密かに三味線の稽古をしていたのはこのような場所であったのだろうことも窺い知れる。
「午前三時頃に眼を覚まして三味線を抱(かか)えて物干台に出るそうして冷たい夜気に触(ふ)れつつ独習を続け東が仄(ほのか)に白(しら)み初(そ)める刻限に至って再び寝床(ねどこ)に帰るのである」
と、佐助が人知れず励んだ三味線の稽古のことが記されている。
明治の頃、小西商店だけで佐助のような使用人も含め50人ほどが寝起きをしていたし、近江屋長兵衛商店(のちの武田薬品工業)、田辺五兵衛商店(のちの田辺三菱製薬)、塩野義三郎商店(のちの塩野義製薬)などの大きな薬種商もあって、道修町は職住一致の街として今よりも居住者は多かった。「各自ニ勉強スルコト」という小西商店の店員心得からすれば、他の商店でも多くの店員が住み込みで働き、夜は店の二階で勉強に励んだのである。薬種商たちの直向きさは、唐薬販売・和薬の製造販売から始まって、品質管理の徹底や薬事制度にも貢献した。教育という面では、大阪大学薬学部や大阪薬科大学へとその技術水準は継承され、道修町の大きな商店は洋薬の製造販売や化学系商品を扱う大企業へと発展を遂げたのである。そして、2019年には道修町の世帯数は169、人口は277人(1.6人/世帯)となり、これに2016年の事業所数532・従業員数12,910人という数字を重ねると、道修町は昼間人口が夜間人口より圧倒的に多い典型的なビジネス街となっている。そんな中にあって、旧小西家は明治の佇まいを持つ際立つ存在なのである。
薬種商小西商店の創業は1870年(明治3年)で、二人の小西儀助がその礎を作った。初代の小西儀助も二代目小西儀助も進取の精神に富んでいて、当時は薬と考えられていたアルコールの製造に取り組み、初代は1876年(明治9年)に関西で最初に洋酒製造を始め、ビール製造にも乗り出した。しかし、翌年には商売に行き詰まってしまう。これを三年で立て直したのが、店員の北村伝次郎であった。北村は1886年(明治19年)に二代目小西儀助を襲名し、薬種商を継続する一方で1888年(明治21年)には「赤門印葡萄酒」を世に出した。1892年(明治25年)ここに丁稚奉公に入ったのが当時十三歳のサントリー創業者鳥井信治郎であった。小西商店で葡萄酒やウィスキーの調合の手ほどきを受けたのである。サントリーの社員が、「小西さんのおかげ」と言って、年初めには今でも必ず丁寧にご挨拶に来るという。大阪のちょっといい話である。
●谷崎潤一郎『春琴抄』新潮社 2019年・・・『春琴抄』は6度も映画化された。1935年の田中絹代から始まって、京マチ子、山本富士子、渡辺督子、山口百恵、長澤奈央が春琴を演じている。佐助も難しい役である。順に並べると、高田浩吉、花柳喜章、本郷功次郎、河原崎二郎、三浦友和、斎藤工となっている。時の二枚目男優達である。
●「重要文化財 旧小西家住宅のご案内」「旧小西家住宅資料館パンフレット」コニシ株式会社・・・非公開であったが、事前申し込みで屋内(一階のみ)を見学することができるようになった。軒切りしたあとの小西家の模型も含め、各種の展示が行われている。
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