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【アサクリ】教会比較:ウェアラムの2つの教会+α【ヴァルハラ】

ーム「アサシンクリード ヴァルハラ」に出てくる教会について、比較やシロウトの雑感をテキトーにつらつらと書きます。

今回はウェアラム (Werham/Wareham) の教会について。
オールド・ミンスター回

2021年10月19日にディスカバリー・ツアー (観光モード) が公開される予定ですので、きちんとした歴史ネタはそちらなどをご覧いただければと思いますが、とりあえず自分の狭い知識の中でニマニマした所をメモしておきたかったので...。

【!注意!】ゲーム後半のネタバレを含みます。
※ゲームの攻略法などは全くありません
筆者のアサクリのプレイ経験は「無印」と「ヴァルハラ」のみです。
※ 他の記事と重複する部分もあるかと思いますが、これはサビです。
固有名詞などが日本語版と微妙に異なる場合があります。
note の引用機能 (この注意欄のような色付き背景) を注釈/コメントに使っています。


♰ ウェアラムの2つのサクソン教会

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【概要】ゲームのウェアラムに教会が 2つあったので、現地に行った記憶が蘇って大はしゃぎしましたよ、という話です。

【ウェアラムの基本情報】

ゲーム内のハムトンシャーのウェアラム (Werham, Hamtunscire)は、
現在のドーセット州のウェァラム (Wareham, Dorset) です。

石器時代~古代ローマ時代から定住地があったとか無かったとか、諸説あるようですが、昔から何らかの活動拠点にはなっていたっぽい場所のひとつです。

9世紀当時の正確な地理は未確認ですが、少なくとも現在は、ゲーム上のような南の海岸線寄りの断崖絶壁の上の村ではなく、

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もう少し北に入り込んだ プール・ハーバー (湾/入り江) ~ウェアラム水道 (Poole Harbour & Wareham Water) に程近い、フルーム川 (River Frome) 沿いの街です。 (※蛇足脚注 1)

現在の実際の地図 (©Google Map) との広域比較。
ウィンチェスター、サザンプトン水道、ワイト島との大まかな位置関係は極端にはズレてません。
(ゲームの地図自体は当時の古地図に寄せている感じが良いですし、現在とは海岸線も異なるので、単に比較です。)

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で、地理条件こそやや異なるものの、ゲーム上で侵入しづらい砦状の村としてデザインされている通り、
実際の 9世紀当時のウェアラムも 東・西・北側土塁が築かれ、南にフルーム川、北にも川 (※) 、東に湾/入り江 (プール・ハーバー) を備えた、守りの固い居住地だったようです。

※この北側の川は、A.S. Cook版Keynes & Rapidge 版 の現代英語訳本では「タラント川 (River Tarrant)」と補足されていますが、実際は恐らく「トレント/ピドル (Piddle/ Trent) 川」。(詳細は蛇足脚注 2 参照)

また、880年代以降 (ゲーム上の「イングランド平定」後) には、アルフレッド王治下の対ヴァイキング防衛拠点ネットワークの一環として、土塁の補強・碁盤の目状の街区の整備などの防衛体制の増強が行われ、
指示書「バーガル・ハイディジ (Burghal Hidage)」(通称) にも厚い配備ランク (1600ハイド) で記載される、重要な防御拠点 (バラ / burh) となりました。

現存する「バーガル・ハイディジ」の写本は、この防御ネットワークを更に広げた息子のエドワード (長兄王) と娘のエセルフレド (Æthelflæd, マーシア担) 時代のもの。

12世紀以降にはウェアラム内の南東部に「城」も建てられたっぽいですが、今はモット (堀) などの一部を除いて地表の建物は現存せず、Castle Gardensという庭?と私有地になっている様子。
ですが、ゲーム上でも南東部に「Barracks (兵舎)」が配置されてるのが、たいへんナイスです。

ともあれ、アルフレッド王聖地巡礼者 (※筆者) の目には、「グスルムが率いるデイン軍が籠城していた街」として光り輝いており、

現在も上記のアングロ・サクソン時代に遡る土塁が残っていたり、
ヴァイキング達が居座った
とされる (後述) 修道院/教会 (の後年の姿) が残っていたりと、
今でこそパッと見は地味...もとい、落ち着いた街ですが、ポイントを押さえると「グスルムvsアルフレッド」の歴史が感じられる、非常にアツイ街です。シビれます。

なので、ゲーム上の地図にウェアラムがあるのを見た時は、
グスルム籠城戦キタコレ!!!!
と、大興奮しました。
(実際のシナリオはやや異なりましたが...。)

現在のウェアラム、南辺のフルーム川の船着き場 (Quay) のあたり。
このへんにデイン軍のヴァイキング船が停泊した (多分) かと思うと、滾ります。(2011年撮影。1枚目右側は橋の欄干)
街の観光サイトにはウェアラムへのアクセスとして「電車で」「車で」の他に「ボートで」も紹介されています。

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サクソン時代からの土塁。堤防のような土手で、散歩道になっています。(犬の「おとしもの」も結構ある)
住宅地に隣接しており、地名 (ストリート名) にも「ノース・ウォールズ」「イースト・ウォールズ」「ウェスト・ウォールズ」が残っています。

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最初はもっと低かったらしいですが、デイン軍の襲来後、元の土塁に積み増してその上を木材で補強した防壁 (rampart) を構築。
現在の姿は更に後年、何段階かを経て更に増強されたもの。(参考: Visit Wareham - Saxon Wareham )

▼これは「北壁 (North Walls)」で、北側 (右側) にトレント (ピドル) 川 (※蛇足脚注 2)  があります。現在のこの流域は狭い小川ですが、土塁&川のダブル防御。

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街の中心部は普通に商店街やスーパー、公共施設、住宅地などがあります。

で、ようやく本題というか、
ゲーム上のウェアラム内には、名前が表示されない大きい教会と小さい教会がありますが、実際のウェアラムにも、サクソン時代からの教会が 2つ残っています。
この再現度、最高です。

【参考】その他の教会: 実際のウェアラムには他にも新しい教会がいくつかあります。逆に、中世 (年代未確認) に存在していたものの、ヴィクトリア時代頃までに消滅した教会として、All Saints、St Peter’s、St Michael があったようです。

♰ レディ-セント-メアリ教会 (Priory Church of Lady St Mary)

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まず、ゲーム上のアルフレッド王とグスルム達が話し合いをする、大きい方の教会は、レディ-セント-メアリ修道院教会 (Priory Church of Lady St Mary/ Lady St Mary Church) を模しています。

▼ 実際のレディ・セント・メアリ教会
かなり似せたのがわかります。この建物は12世紀以降に徐々に改装・増築していったもの。
【参考 [英語]】 Historic EnglandBritish History Online)

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ゲーム上ではウェアラム内の海に近い位置 (南側) にありますが、実際のウェアラムでもフルーム川に近い位置に建っています。

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Copyright © 2021 visitwareham.com

...などと書きつつ、お恥ずかしながら自分は現地で見るまでこの教会についてきちんと認識していなかったのですが、
(アッサーが言及していた「女子修道院」[後述] が目当てだったので)、

レディ・セント・メアリ教会は由緒正しいアングロ・サクソン時代からの教会で、偉大なイネ王 (King Ine/ Ina) の治世である8世紀初頭 (705年頃?) に、シャーボーン修道院 (Sherborne Abbey) の初代司教アルドヘルム (Aldhelm) が設立したとされているようです。

【追記】:バーバラ・ヨーク (Barbara York) 先生は イドバーガ (ブッガ/ St Edburga/ Bugga) (759年没) が設立したのでは、という説もが提示しています。Centwine 王の娘で、Minster-in-Thanet の女子修道院に入り、後に修道院長となる。アルドヘルムがイドバーガに捧げる詩を書いているっぽい。聖ボニフェイスと文通友達。
※ウィンチェスターのナナミンスター (ゲーム上の「修道女の大聖堂」) に後に祀られた聖イドバーガとは別人。

ただ、7世紀頃にも既に前身となるキリスト教会があったことを伺わせる墓碑が残っており、教会の片隅に展示されています (後述)。

教会の 8~9世紀当時の呼び名は未確認ですが、当時は教会単体というより、修道院 (abbey ≧ monastery)=修道僧達の生活共同体が付属した教会施設 (※雑認識) がメインのようなので、ウェアラムもそんな感じだったっぽいです。多分。

ともあれ、主なイベントとしては、

802年にウェセックス王ベオトリック王 (ベオトリッチ etc/King Beorhtric of Wessex) が妻イードバーガに毒殺された後、「ウェアラムに埋葬された」 (アッサー・談) とあるので、恐らくこの教会だったり、

876年には、前述のグスルム達が率いるデイン軍が「修道女の修道院のあるウェアラム」を占拠したのでアルフレッド王がゼニを払ってご退去いただいたり、

後年ですが 978年にはエドワード殉教王 (Edward the Martyr) がコーフ城 (Corfe Castle) で殺された後、取りあえずこの教会に埋葬されたりしており、

... 謀殺されたサクソン王の埋葬場所か?という感じですが、ともあれウェセックス/サクソン王家に関わりのある教会です。

ゲーム上の教会内部。アルフレッド勢とグスルム勢の、和平交渉という名の煽りまくり大会 (pissing contest)。(※蛇足脚注 3)

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▼ こちらが現在のレディ・セント・メアリ教会の内部 (2018年)。
正面の祭壇のある内陣 (chancel) がゲーム上ではアプスっぽくなっていますが、雰囲気が出ています。
(「普通の教会のよくある構造では?」と言われればそれまでですが、似せたと思わせてください...。)

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▼ これはゲーム内の教会の中に置いてあるエフィジーですが...

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実際の教会の中にも鎖帷子&サーコート姿の「13世紀の軍人のエフィジー」が2体あるっぽいです。
っぽい、というのは、自分はアホな事に写真を撮りそびれてたので (気付かなかったのかも)、教会モニュメントを集めたサイト「John Bromilow's Gazetteer」のドーセット篇 (ページ中部) に写真があります。

▼他にも 13世紀の石棺など。
石材は近くのパーベック丘陵 (Purbeck Hills) で取れるパーベック石 (大理石/石灰岩)。

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その他の展示品 (一部)。(2011年、2018年)

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▼ 右は二連のピッシーナ (piscina/ 洗盤。聖体拝領 [holy communion] の際に司祭が手や容器を洗ったりする)。13世紀

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ゲーム内の教会にも、忘れずにピッシーナが配置してあります。大変よいです。

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▼ ピンボケですが、洗礼盤 (font)12世紀頃。鉛製&六角形の珍しいもの。2011年に行ったときは実際に赤ちゃんの洗礼式をしていました。

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ゲーム内にも洗礼盤が置いてあります。(これも大体どの教会にも配置してありますが、わかりやすく置いてあるということで...)

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▼ついでに。少し前述した、7世紀の墓碑 (memorial stone)。
ラテン語で「CATGUG/ FILIUS GIGEO」(Gideonの息子、Catgug)とあり、「Catgug」は古ウェールズ語 (ブリトン人/「ケルト」系) の名前「Catguocaun」(現在のカドガン/ Cadogan) の省略形だそうです。

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▼ こちらは8~9世紀の墓碑。ラテン語の「GONGORIE」とあり、同じく古ウェールズの名前「Gongor」に該当、と説明書きがありましたが、
UCL のケルト石碑データベース (CISP) によると『Gongor という名前は無いので、「Gongoria」だろう』との考察も。女性の名前。

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レディ・セント・メアリ教会では同様の「ケルト」碑文が 5件確認されているようですが、写真を撮り損ねました。
ともあれ、イネ王の時代に「設立」される前の 7世紀頃からすでに宗教施設があった、という推論の元になっているようです。

【ふんわり背景メモ】
・7~9世紀頃前期
のウェアラムのあたりは、アングロサクソン系のゲウィセ族 (Gewisse) ~ウェセックス王国のエリア。
・ウェアラムよりもっと西のコーンウォールあたりは、その後も長らく「西ウェールズ人」=ブリトン人 (「ケルト」) の王国。
・ローマ属州時代のブリタニアで形成された「ロマノ・ブリティッシュ (ローマ・ブリトン)」文化 (Romano-British) は、その後、ウェールズあたりで継承・発展。

▼ 更についでに:ステンドグラス。
右は「A.D. 700」とあるので、多分イネ王 (King Ine)の治下で教会が設立された事を表していると思いますが、聞き忘れました。

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完全に蛇足:プリンス・オブ・ウェールズとダイアナ・スペンサー嬢のご成婚記念植樹。何故。(王室つながり...?) 1981年。

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:ヴィクトリア女王の息子の方のプリンス・オブ・ウェールズ (エドワード7世) のご訪問と、その息子 アルバート・ヴィクター王子のご生誕を祝う石碑。1864年。

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【信者的妄想】
何故 エドワード7世がこの教会を訪問したのかよくわかりませんが、彼はウォンティジ (Wantage) にあるアルフレッド大王像の除幕式にも行っているので、アルフレッド大王ブーム関連なのかも...? 何というか、アルフレッド大王ファンクラブ会員No.001 (ヴィクトリア女王が名誉会長) 的な...。
(※ファンクラブは存在しません。多分)

♰ 「修道院」の雑感メモ

レディ・セント・メアリ「教会」と書いてきましたが、前述のように以前は修道院が付属した教会でした。

アッサー著のアルフレッド王の伝記には、ウェアラムは「女子修道院("monasterium sanctimonialium") があり、2つの川に挟まれた砦の街」(意訳) とだけ書かれており、教会 and/or 修道院 (男子?) があるかどうかは明記されていません。

そのため、不勉強な自分は女子修道院だけがあるものだとばかり思っていたのですが、現地に行ったら、レディ・セント・メアリ教会があり、その横に付属の「修道院」だった建物があったのでした。
公式ウェブサイト上の名称も「レディ・セント・メアリ修道院教会 (Priory Church of Lady St Mary)」。

ただ、この教会+修道院は 12世紀以降の形態なので、
もともと「教会」と「修道院」があったのか、
アッサーの記述は「教会」(または男子の修道院) があるのは当然のこととして省略し、「女子修道院もある/あった」という意味なのか (色々見ていると女子修道院のみっぽいですが)、
あるいは 9世紀当時はサクソン的に全部ひっくるめて「修道院」だったのが、12世紀以降にノルマン的な「教会」+「修道院」になったのか...
こんへんがよくわからないというか、そもそも自分はまだこの、9世紀頃の教会 (church) /アビー (abbey) と修道院 (monastery) の区別の仕方がよくわかっていないのですが、
自分の理解不足がお恥ずかしい限りなのですが、研究者の記述を見ても色々推論があるようなので、あくまで覚書として書いておきます。

また、デイン勢が「修道院に居座った」と書きましたが、これは、アルフレッド王関連の文章でグスルムのウェアラム占拠のくだりを読むと、この「(女子) 修道院」が 875~876年にデイン軍に占拠された際に破壊された、という記述をよく見かけた気がするのと、映像作品でもそういう描写がままあるので、自分はそういうものだと思っていたのですが、
改めて修道院を拠点としたかどうか確認してみると、一次資料があまり明記されておらず、うまく確認できませんでした。(※蛇足脚注 4)。

まぁ当時のデイン軍は修道院は普通に略奪対象でしたし、おそらく長期占拠中は利用したと思われますので、自分が読み落としているだけだと思います。

ともあれ、「アングロサクソン年代記」(ASC) の 982年 (C本) に「ウェアラムの女子修道院長 (abbess) Wulfwina が死去した」と記載があり、何とか持ちこたえていたか、やはり一旦破壊されて平和になってから再建されたか不明ですが、「(915年頃?に) アルフレッド王の娘が再建したと言われている」(長女のエセルフレド [Elfleda/Æthelflæd]?) とか、「915年に再建され、998年頃に解散」という記述もみかけるので、そこそこ続いていたようです。

で、ノルマン時代以降になると、ノルマンディーのリール修道院 (Abbey Notre-Dame de Lyre) の海外拠点的な修道院 ("alien priory") になったりしつつ、ヘンリー8世の宗教改革で解体。

現在は 16世紀初期部分を含む建物 (Grade II) を利用したお高いラグジュアリーホテル&レストラン、その名も「The Priory」(修道院) になっています。

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【現地情報】 ホテルにはサクソンやヴァイキングに関する歴史資料的なものは残っていないようで、受付の人に聞いたら困惑していましたが、「ここにヴァイキングがいたハズ」などと食い下がったら、16世紀以降のレイアウトか何かを見せてくれたような記憶。(曖昧)
なおロビーへの入り口 (木の扉) はチェックイン時間などは開いてますが、閉まっていると重くて開けづらい (関係者・談) ので、誰かが通るのを待った方が無難な場合も。自分は厨房の人が通りかかったので開けて貰いましたが、
体当たりしてました。(右奥、2018年)


♰ セント-マーティン教会 (St Martin's Church)

ゲーム上の小さい方の教会は、現在のセント-マーティン・オン-ザ-ウォールズ教会 (St Martin's-on-The-Walls) と思われます。

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▼ 実際の聖マーティン
こじんまりとしており、ゲーム上の姿もレディ・セント・メアリ程ではありませんが、雰囲気が似ています。

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ここもレディ・セント・メアリ教会と同様に 7世紀のシャーボーン司教アルドヘルム (St Aldhelm) が創立した教会が前身、という話もあるようですが、教会には「10世紀創立」と書かれていました。

現在の建物の一番古い部分は 11世紀 (1030年頃) の要素を残しており、ドーセット州で最も古い教会だそうです。
(参考 BBCHistoric England

なおこの「1030年頃」というのは、クヌート王が 1015年 (ASC [E本]) のイングランド侵攻で「フルーム河口からドーセット、ウィルトシャー、サマセットに侵攻した」際に、ウェアラムも焼き払われてしまったため、その後再建した、という時系列。

アルフレッド王の時代 (=ゲーム内の年代) に存在していたかどうかは、アルドヘルム設立説を信じれば「ある」という感じでしょうか。

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【サクソン時代の入口】
ゲーム上では入り口が 2か所
ありますが、実際のセント・マーティンも、正面入り口の他に、祭壇右にこっそりと小さい通用口 (後年の物) があります。
更に、サクソン時代の入り口の跡もあり、現地では確認しそびれましたが、おそらく裏手にうっすら見えているのがソレ。
ゲームプレイ上の都合かもですが、この細かい再現度、大変良いです。

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▼ で、ゲーム上のセント・マーティン (仮) も、別記事で書いたゲーム内の他の教会同様壁画データが配置されていますが、これも感動したポイントのひとつです。

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と言うのも、実際のセント・マーティンにも、こんな感じでフレスコ壁画が残っていて、当時の様式の身廊と合わせて、雰囲気が似ているからです!

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内陣アーチ (chancel arch) の上の壁画は 17~18世紀のもの。
上から何回も漆喰を塗り直して新しい絵を描いてあり、この写真上部も、アン女王の紋章 (1713年頃) がチャールズ王 (2世?) の紋章にかぶせて描いてあります。

▼ もっと古いのが、内陣の祭壇の左上の壁画で、12世紀のもの。聖マーティン (トゥールのマルティヌス/ St. Martin of Tours) がマントを切って乞食に与えている様子。

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なおこの壁画の右側に、見づらいですが少し凹んだ小窓があり、これも 11世紀の建設当初の特徴的な建築様式のひとつ。
たまりません。

ゲーム上の内陣 (祭壇) 側を見たところ。サイズ感はかなり違いますが、雰囲気は似てます。とても良いです。

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【保存の良さの背景】 セント・マーティン教会はヴィクトリア時代あたりは放置されて物置っぽくなっていたらしいので、当時の教会改築ブームの被害を受けず、古い壁画や身廊が保存されたようです。(レディ・セント・メアリ教会は煽りを喰らって改築されている)
上の写真でも片隅に廃材が置いてあるのは、「放置されていた」の小ネタ?

【余談:アラビアのロレンス】

ゲーム上のこの教会に入った時の印象は「本物より広い」だったのですが、つまりセント・マーティン教会は、かなりこじんまりしています。
▼ 広角があまり利いてない写真だと、身廊の幅はこんな感じ。

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で、そのささやかな教会の片隅に、何故かアラビアのロレンス (T.E. ロレンス/ T.E. Lawrence) のエフィジーがあります。
エル・オレンス!

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小さい教会の北側廊 (身廊の左側) にどーんと場所を取っていて、結構邪魔くさ...存在感があります。
寄せ書きノートや資料もあり、エフィジーを目当てに結構観光客が来るようですが、
本人の墓は別の場所にあり、ここは空のエフィジーのみ。

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何故こんなところに??という感じですが、
ロレンス氏のコテージがウェアラム市街から約10kmの場所にあり、彼が亡くなったバイク事故の現場も、そのコテージの近く。
ウェアラムの街およびセント・マーティン教会にも時々来ていたらしいです。
で、ロレンスの死後、友人達の発案でこのエフィジーを作ったものの、アラブ衣装が奇抜だったのか色々な教会に設置を断られ、最終的にセント・マーティン教会が受け入れてくれたようです。
エフィジーの作者は従軍画家かつ彫刻家であり、ロレンスの友人でもあったエリック・ケニントン (Eric Kennington)。

実際のお墓は、コテージの近くの聖ニコラス教会 (St Nicolas' Church, Moreton) にありますが、ここもエフィジー設置を断った教会のひとつ。

参考:オクスフォードのアシュモリアン博物館に展示してあった、ロレンスが着ていたとされるトーブのホンモノ。

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◆ コーフ城 (Corfe Castle)

ついでに。
レディ・セント・メアリ教会に一時期埋葬されていたエドワード殉教王 (※) が王位争い絡みで殺された現場と言われている コーフ城は、ウェアラムから南に約 7kmの高台にあります。
非常に「ピクチャレスク」で、ジェーン・オースティンも見に来た、みたいな説明があった気がします。

▼コーフ城の外郭からキープ (天守) を臨む。もっと離れた特定の場所から見るとむちゃくちゃかっこいいですが、運転中だったので写真撮れませんでした。

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この高台のてっぺんにあるコーフ城の感じが、ゲーム上の崖の上にあるウェアラムに統合されたっぽい感じもします。
城郭内は有料。駐車場に観光案内所があります。時間がなかったので外から眺めただけ。残念。

なお、ウェアラムにもエドワード殉教王を祀ったカソリック教会 (The Catholic Church of St. Edward, King and Martyr) がありますが、これは比較的新しそうな気配。

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※:エドワード殉教王 (Edward the Martyr) と紛らわしい人達
・イースト・アングリアのエドマンド殉教王 (Edmund the Martyr) とは別。
・アルフレッド王の息子、エドワード長兄王 (Edward the Elder) とも別。
エドワード証聖王 (告解王/懺悔王, Edward the Confessor) とも別。


◆【観光情報】

英語ですが街の観光サイト「Visit Wareham」が参考になるかと思います。

電車で行く場合は、Wareham 駅から街の中心部のエリアまで 1km程度あり、やや歩きますが、途中で前述のトレント (ピドル) 川を渡り、北壁を外から眺められてよかったです。
駅から路線バスもあります。「South Bridge」停を降りるとすぐの図書館内に、観光インフォメーションデスクあり。
レンタカーの場合は、公共の駐車場がいくつかあります。
ボート
では行ったことないです。

郷土資料館 (Wareham Town Museum) はボランティアで運営されているらしく、開館はややランダムな場合あり。日曜と冬期は休業。自分は 2回行って2回とも閉まっていました (1回は臨時)...。つらい。

セント・マーティン教会はミサで開いている時もある (水曜11AM~) ようですが、通常は施錠されており、200m程度離れた場所にある紳士用品店 (店名は入り口に書いてあります) にカギを借り&戻しに行く必要があります。中を見学したい場合は時間に余裕を見た方がよいかも。紳士用品店は水曜が定休日です。(2021年8月現在)

地方の小さい教会は、施錠されておらず勝手に入れる所も多いようですが、ヨソ者が来ると近所の人がさりげなく植木の水やりを始めたりするので、誰かが出て来たら積極的に会話をした方がよい...というのもこの辺で学びました。

レディ・セント・メアリ教会もオープン時間が書いてあった気がしますが (Google Map上だと 9AM~5PM、日曜~3PM )、必ず開いている訳ではなかったり。入りたそうに粘っていると誰かが気付いてくれるかもしれない。
ウェアラム教会グループのカレンダーでご確認。

修道院だったホテル「ザ・プライオリー」は、ロックダウンとかでなければ普通に営業しているはず。
レストランは宿泊していなくても利用可。参考:サンデー・ランチ 約40ポンド。

◆ 蛇足脚注

かなりどうでもいいメモ類。

※蛇足脚注 1:地理的雑感/覚書:
・海からのアクセス
:現在のウェアラムの市街地はウェアラム水道から直線で 2kmほど上流 (西) ですが、前述のアッサーの記述 (『西側以外は』守られている土地) のように、当時は今よりも海に近かったのかも。
で、デイン軍は (その前に陣取っていた) ケンブリッジ (※ゲーム上の「グランテブリッジ」) からウェアラムへ来たのですが、ウェアラムまたは近郊で陸上移動組と海上移動組 (または別動隊) などが合流しで、ケンブリッジからも陸組と海組に分かれていたのかも。
(別動隊=「西軍」。参考: Æthelweard 版「アングロサクソン年代記」e.g. THE CHRONICLE OF FABIUS ETHELWERD )。

ともあれ、ウェアラムの後に海上からエクセターに向かおうとしたグループは、スワネッジ (Swanage) で120隻以上が沈没したらしいので、海上移動組も多かったはず。
・標高的に:ウェアラムのあたりは川沿いの低地ですが、 その南のパーベック半島 (Isle of Purbeck) は丘陵地 (Purbeck Hills) で、てっぺんにコーフ城址 (Corfe Castle) (後述) がそびえていたりするので、ゲーム上の「ウェアラム」は、ウェアラム砦とコーフ城をやや魔合体させた感もあります。
※蛇足脚注 2:ウェアラムの北側の川の名前:
アッサー (Asser) はウェアラムについて「2つの川に挟まれており、内陸に面する西側以外は堅固な砦」と描写し、「2つの川」の一つにフルーム川 ("Frauu," "Frawe," etc.) を挙げていますが、もう1つの川の名前は、現存する16世紀の写本 (Cotton MS Otho A XII) には記載されていないようです。
(1000年頃の写本には書かれていたかもですが、18世紀に焼失。)

この川について、
1906年の A.S. Cookの現代英語訳版
では「<River Tarrant>」(タラント川) とし、1983年の Keynes & Lapidge 版でも Cook版の「Tarrant」を継承しています。
しかし現在のウェアラムに近い「タラント川」は、ウェアラムから北に約 15kmの位置でストア川 (River Stour) に注ぐ支流で、当時の流域は未確認ですが、それにしても位置がまぁまぁ離れているので、
小田卓爾版の和訳 (1995年 中公文庫) でも「トレント」としているように、ウェアラムの北壁のすぐ北を流れる「トレント川 (River Trent)」、別名 ピドル川 (River Piddle) の事でよいのではと思います。
<参考> 16世紀の John Lelandの「Collectanea」(1774年版, p388) は「Trent」としており、1904年の Stevensonのラテン語版ではこれを「<et Terente>」と補記しています。

なお、上流では 10世紀頃から既に「Pidelen」「Pydel」等と呼ばれていた記録のあるピドル川が何故ウェアラム付近では「Trent」なのか、未確認ですが、単に場所によって呼び名が変わるパターンか。なお "piddle"=「尿」。
※この「トレント川」は、ノッティンガムのあたりを流れるもっと長い (イングランドで3番目) 同名の河川とは別の川です。
※蛇足脚注 3:アルフレッドとグスルムのウェアラム和平交渉シーン雑感:
この場面について、ウェセックス史観 (「アングロサクソン年代記」(以下ASC) や「アルフレッド王の生涯」) では、
異教徒 (デイン) 軍がウェアラムを占拠したので、最終的にアルフレッド王が (有利っぽい感じで) 人質交換&和解金を支払い、デイン軍はウェセックス国外に去る事を固く約束したものの、すぐに和議を破って人質を殺し、夜陰に乗じてウェアラムを脱出してエクセターに向かった.... 云々、
とありますが、「アサクリ ヴァルハラ」はヴァイキングが主人公のゲームですので、グスルム側はフェアな条件と態度 (当社比) で和議を受け入れ、一両日中に街を去ることに合意したものの、アルフレッドの陰湿な捨て台詞その他にキレ、ウェアラムを焼き払って退去、人質を救出に行く...という感じになっております。
史料に添いつつ「なるほど」となる解釈・アレンジで、上手いな~と思いました。

ついでに:ゲーム内ではグスルムが「十字架と異教徒のハンマー (ミョルニル)に誓って」和議を結んだ、というセリフがありますが、ASC では「聖なる腕輪」(sacred (arm-)ring/ halgan beage)、アッサーは「(王が) 神ご自身の次に最も信頼するいくつかの聖遺物 (omnibus reliquiis, quibus ille rex maxime post Deum confidebat)」に誓った、としてます。で、ゲーム内ではウェアラムを脱出したグスルムがアルフレッドを「腕輪の誓いを破った裏切者 (breaker of rings)」と罵るセリフがあります。この、諸説ある場面では明言を避けつつ後から補足するセリフ回しにも感銘を受けました。

【余談】グスルムがエクセターに移動した際、海上移動組は (プール湾のパーベック半島の南東端のスワネッジ (Swanage) あたりで嵐に遭い、120隻が沈没。
これをある意味ウェセックス軍の勝利の一部と拡大解釈したのか、スワネッジの海水浴場にヴィクトリア時代のアルフレッド王ブームの頃 (1862年)に作られた記念モニュメントが建っています。
※蛇足脚注 4:デイン軍のウェアラム占拠/修道院破壊の記述が見つからなかった (雑メモ):
例えば Thomas Tanner の「Notitia monastica」(1744) の「WARHAM」の項(p102) に、「デイン人がこの街を襲って占拠した 876年より前のサクソン時代に、ここに女子修道院があったと言われている」との記載があり、脚注に John Leland (1503/6~1552) の「Collectanea」(Vol. II, p388) (=「ウェアラムに女子修道院があった」)と、Serenus de Cressy の「The Church History of Brittany or England」(1668) を挙げていますが、自分の読解力不足で「破壊された」に該当する記述を上手く探せませんでした。(各地の教会について、「デイン勢に破壊されるまでは~」という記述は多々ある)
Cressy の「Church History~」は 12世紀の マームズベリのウィリアム (William of Malmesbury) の Gesta pontificum Anglorum 等を引いてますが、いずれにせよ 17世紀の文書。
...という感じで、自分は調べ切れなかったのですが、取りあえず自分用メモとして置いておきます。


取り留めなく書きましたが、このへんで。
過誤や抜けなどがありましたらご指摘いただきいただければ幸いです。
おわり。

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アルフ巡礼者 / Alf Pilgrim
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