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あなたの居場所の物語――『神様のメモ帳』論

はじめに

まずはじめに告知です。
『ミステリマガジン』2023年5月号(発売中)から、「陰謀論的探偵小説論」という連載が始まりました。

連載開始の宣伝になるかなと思いまして、久しぶりに昔書いたミステリ評論を公開しようと思います。

今回公開したのは「あなたの居場所の物語――『神様のメモ帳』論」です。初出は自分がメンバーのミステリ評論同人団体、不毛連盟が発行している『ボクラ・ネクラ』第二集(2019年)に掲載したものです。

「陰謀論とミステリ」という連載のテーマとは直接的には関係ない評論ですが、個人的には、合わせて読んでもらいたいなと思っています。
というのも、「推理」を「物語」として捉える本論の議論は、「推理」が「陰謀論(=物語)」のように機能してしまう、という現在の問題関心にも引き継がれているからです。

他の評論もそうなのですが、個人的には自分のミステリ評論は一貫した関心のもとに書いていまして、それが「探偵/推理を「事件を解決するための装置」以外のものとして捉える」というものです。
もし興味を持っていただけたら、こうした観点から自分のほかの評論、そして何より連載を読んでいただけたら幸いです!

補足

同人誌版から論旨が変わらない程度に加筆修正しています。

一点だけ、今は別角度から『神様のメモ帳 7』について論じたい気持ちが湧いてきています。ただ補論を書けるほどの準備ができてないので、簡単に今考えていることを記しておきたく思います。

本文中でも紹介しているように、『神メモ』7巻は渋谷の旧宮下公園の改装計画反対運動を下敷きにして物語が紡がれています。
本論では、『神メモ』を宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』を引いて、いわゆる「ゼロ年代批評(オタク系批評)」との接続を図っていますが、このとき毛利嘉孝の『ストリートの思想』についても触れてよかったのかもしれません。
『ストリートの思想』では旧宮下公園の改装計画反対運動を大きく扱っています。
そして『現代日本の批評』の座談会のなかで佐々木敦や東浩紀らは、この「ストリートの思想」と東・宇野らの「オタク系批評」をゼロ年代における批評の二大潮流のように整理しています(影響力など「どちらが本流だったか」という点は、座談会の出席者内でも意見が割れている)。
この二つの潮流を接続させることができる可能性を『神メモ』は秘めていたのではないでしょうか。
そのためのキーワードが「居場所(コミュニティ)」と「(小さな)物語」ではないか、という考えがぼんやりとあります。

あなたの居場所の物語――『神様のメモ帳』論

1 「演繹」する助手

 『神様のメモ帳』シリーズ(以下『神メモ』)は杉井光によって電撃文庫から出版されたライトノベルミステリ作品である。二〇〇七年に第一巻が発売され、二〇一四年に発表された第九巻でシリーズは完結している。

 高校生のナルミ(藤島鳴海)が偶然知り合った「ニート探偵」(自身は謎解きをするとき以外、基本的に自室から出てこない)のアリス(紫苑寺有子)の助手となり、彼女の周りにいる仲間たちとたちと協力しながら、街で起きる麻薬の横行事件や不良グループの抗争、ホームレス殺害事件などを解決していく……。これが『神メモ』の大まかなあらすじである。

 助手が視点人物で探偵が主人公など、『神メモ』の基本的な骨格は一般的なミステリのフォーマットに忠実な作品である。一方でレーベルが電撃文庫である以上「ラノベ」らしい設定も作品に組み込まれている。

 その一つが探偵役のアリスのキャラクター造形である。アリスは人形のような美少女でありながら、引きこもりでネットに詳しく、ナルミを信頼しつつも日常的にはきつくあたる「ツンデレ」キャラとして描かれており、ラノベのヒロインらしいキャラクター設定が盛り込まれている。

 一方で、このラノベ的なキャラクター設定は「探偵」としての彼女のあり方にも影響を与えている。前述の通り、彼女は「ニート」探偵として自室である探偵事務所に引きこもり、実地での事件の捜査や情報収集などはナルミや探偵団のメンバーに任せているのである。そして彼女自身はインターネット上の情報をハッキングで収集し、事務所の外に出るのは謎解きをするときだけである。アリスはいわば「安楽椅子探偵」として活躍しているのである。

 しかし物語を読んでいて気付くのは、たしかにアリスは探偵として「謎」を解決している、しかし「事態」は解決していないことである。どういうことだろうか。

 このことについては、『神メモ』のプロットの特徴について見ていく必要があるだろう。

 『神メモ』は各巻で毎回違う事件を扱うが、プロットにはいくつか共通項のようなものが見られるものがある。その一つが「事件の勃発後も事態が進行していくストーリー」である。

 わかりにくいと思うので例を出しながら説明しよう。例えば古典的なフーダニット形式のミステリを想定してもらいたい。この形式のミステリの多くは、殺人が起きた後は探偵や警察による「捜査パート」が始まり、それが終わると「解決編」が始まる。イメージしやすいように具体例を挙げるならば、『オリエント急行殺人事件』などその典型だろう。殺人が起こると、それ以降は列車内での捜査と各容疑者への尋問が、ポワロの推理が行われる「解決編」まで繰り返される。

 しかし『神メモ』はそうではない。ほとんどの巻のストーリーで、事件の発生後も何かしらの問題(トラブル)が続いており、そちらの事態の解決も図っていかなければならないのである。

 例えば第一巻ではナルミの友人である彩夏が学校の屋上から転落する事件が発生する。一般的なミステリなら「なぜ彩夏は飛び降りたのか」に焦点があてられるだろう。(もちろんその謎にも焦点が当てられるが)しかし『神メモ』では彩夏の兄が街で現在流行している麻薬の製造に関わっている可能性が浮上し、「いかにして麻薬の製造元を突き止め、製造を中止させるか」が物語の中心となるのである。

 このときに注目したいのは、この麻薬の横行を止めるのに際して探偵であるアリスよりも、助手であるナルミや、探偵団とその仲間たちの方が中心となって動いていることである。例えば麻薬の販売人を突き止める際にはナルミが自身の体を張った作戦を立案し、見事に成功させている。他の巻でもナルミは様々な作戦を立てて、現在進行形の事態を解決するべく活躍している。

 『神メモ』における現在進行形の事態の解決、それは助手であるナルミの役割なのである。

 この役割についてアリスが言及した箇所がある。

「ジョン・H・ワトスンは、医者で、作家であった。知っているね」
(中略)
「探偵というのは、世界に対して、読者でしかいられないものなんだ。この世界の複雑さを受け入れ、その通りに読み取り、より分け、咀嚼し、帰納するしかない。でも」
 アリスは目を上げる。
「作家は、ちがう。ぼくはある作家の執筆方法に関するコラムを読んだことがある。彼はこう書いていた。ラストシーンから、時間の流れとは逆に小説を書くことだってできる――むしろそれが物語の作り方としては正しい、と。わかるかい。作家は世界を演繹できるんだ」
 世界を演繹する。
  望む結末のために、そこへ流れ込むすべての筋道を刻み、現実につなげる。
 噛みしめるようにアリスは言う。
「ぼくにはできない。きみにしかできない」[一]

 世界を演繹する、つまりは望んだ結末(事態の解決)を迎えるためにはいかに動けばいいのか、これがワトスン役であるナルミの行動原理である。

 「事態を解決する」という点については探偵役のアリスよりもナルミの方が優れており、時としてアリスよりも先に真相に気づくときさえある。例えば第五巻に収録されている短編「大バカ任侠入門編」では、奇妙な誘拐事件に巻き込まれるのだが、ナルミはアリスよりも早く事件の裏側に気づき、人質の奪還を成し遂げている。

 探偵であるアリスが「帰納」によって推理を行うのに対して、ナルミは「演繹」によって「事態の解決」を行っているのである。

 助手が「事態の解決」を担う一方、探偵であるアリスは「事態の解決」において中心的な役割を果たしていない。

 もちろん、現在進行形の問題に対してアリスが全く行動していないわけではない。探偵団をまとめあげて調査を行い、自身もハッキングを駆使して現状分析を的確に行っている。しかし、それでも結局はナルミの打開策によって事態が収束していくことを待たねばならないのである。彼女は現状が把握できないナルミに対して情報を与えることでサポートはしているけれども、最後の一手は助手のナルミにかかっている。

 アリスは、自身の探偵としての在り方について皮肉めいたことも述べている。

 「でもね、ときおり不安になる。探偵はつまるところ、すでに失われたものに対してしか働きかけられないのではないか、と。起きていない事件は解決できない。まだできていない墓は暴けない。これから傷つくはずの人がいても、ぼくはけっきょくそれに対して無力なままなんじゃないか、とね」[二]

 アリスの言う探偵の「起きていない事件は解決できない」という一節は「事態の解決」を助手のナルミが担っていることを想起させる。現在進行形で問題が続いている状況とは、いわば次の事件がいつ起きてもおかしくない状況とも言え、その起きていない事件に対して探偵は無力なのである。

アリスは「事態の解決」に決定的な役割を果たせない。では彼女は一体どのような場面で探偵として活躍するのだろうか。

2 「死者の代弁者」としての探偵

 『神メモ』のミステリ的な特徴の一つは、前節までで述べた「事件発生後も続く現在進行形の問題」の存在だろう。ある事件が発生し、それに付随する問題が事件後も影を落としており、その問題に対してナルミを中心として解決していく展開は、ナルミがよく「詐欺師」と呼ばれているところからも想起されるように、本格ミステリ的な興趣よりもむしろ、敵との駆け引きに焦点を当てたコンゲーム的な味わいがある。

 前述の通り、このコンゲーム的な展開での主役は助手のナルミであり、アリスはネットやハッキングを使ったサポート役に徹している。ここでのアリスはサポートとして活躍することはあれど、「探偵」として中心に立って活躍しているとは言い難い。

 ではアリスが活躍するのはどの段階か。それはもちろん、初めに起きた事件について推理するときである。彼女はそのときこそ「死者の代弁者」となるのである。

 『神メモ』のもう一つのミステリ的な特徴として「ホワイダニット」が謎の中心として据えられていることである。

 例えば第七巻の事件では、ホームレス狩りが問題となる公園で、ついにホームレスであるギンジが首を切られた死体として見つかる。ここでアリスは「誰が殺したか」より「なぜ首が切られたか」の方ばかりに注目する。

 ホワイダニットに主眼があるミステリはなにも『神メモ』に限らない。しかし、多くの場合その「なぜ」という疑問を解き明かすことで犯人の特定につながるようにできている。「ハウダニット」にも同じことが言える。つまりは犯人特定のために謎を分節したのが「ハウダニット」や「ホワイダニット」と言えなくもない。

 しかし『神メモ』はそうではない。アリスは「ぼくが知りたいのはね、首を切った理由とその方法、それだけだ。犯人には興味ない」と述べ、ホームレス狩りの犯人追跡は「現在進行形の問題」としてナルミと探偵団のメンバーが動き始める。「首を切った方法」についても、興味を示しているもののその明かされ方はあっさりしており、トリック自体も単純な物理トリックで、物語上で大きな位置を占めるものでない。

 また、前述した第一巻の彩夏が学校の屋上から墜落した事件について、ナルミが「なぜ彩夏が死のうとしたのか」知りたがるのに対して、このように述べている。

 「今やそこに謎は一つもない。なぜ死のうとしたのかなんて考えるまでもない。ぼくが知りたいのはそこじゃないんだ。」
 「なに言って……」
 「ぼくが知りたいのはね、彩夏がなぜ学校で自殺しようとしたのかだ」
  僕は一瞬、呆けたようになる。アリスの言っている意味がわからなくなる。
 「あの前日の月曜日、彩夏は授業に出ていない。それはきみも知っているね。しかし授業が終わった後でなぜか学校に行っている。いくつか目撃証言がある。そして家に帰っていない。月曜日の夜、巡回していた警備員が、開けっ放しになっていた北校舎屋上の扉の鍵を閉めたという証言がある。つまりそのとき彩夏は隠れていたんだ。そして朝を待って飛び降りた。わかるかい、衝動的に校舎の屋上を死に場所として選んだんじゃない、最初からあそこに決めていたんだ。じゃあ、その理由はなんだ?」[三]

(太字部分は原文では傍点)

 アリスは自殺しようとしたことよりも、わざわざ学校で自殺しようとしたことについて疑問を持つ。どちらの疑問もホワイダニットとして成立するが、後者の方がよりミステリ的な焦点の当て方といえるのではないか。

 「なぜ学校を死に場所に選んだのか」という点に、アリスはどうして着目したのだろうか。もちろん、このような奇妙な行動原理を探る「ホワイダニット」の方が魅力的であるというミステリのプロット面からの要請上、探偵がそのようなホワイダニットに焦点を当てているというのは当然だろう。しかし、そのようなプロット上の必然性とは別に、アリスは「死者の代弁者」としてこのようなホワイダニットに注目しているのである。

 アリスの探偵としての在り方を考えるうえで、なぜアリスが探偵になったかを自ら語った場面は参考になるだろう。

「わからないかい?すでに死んでしまったもの、失われてしまったものに対してなにかを意味のある仕事が為せるのはこの世の中でたった二つしかないんだ。つまり作家と探偵だ。作家だけがそれを夢の中でよみがえらせることができる。探偵だけがそれを墓の中から掘り返して情報に還元することができる。それは宗教化にも政治家にも葬儀屋にも消防士にもできないことなんだ」[四]

 また、アリスは別の場面で探偵を「死者の代弁者」と呼んでいる。

「……前にぼくが言ったことを憶えているかい。探偵の本質は死者の代弁者だと。墓を暴いて失われた言葉を引きずり出し、死者の名誉を守るためだけに生者を傷つけ、生者に慰めを与えるためだけに死者を辱める、と」[五]

 「死者の代弁者」、死者が隠したまま死んでいった言葉を推理によって明らかにするのがアリスの言う探偵である。

 ここでの探偵の定義は一般的なミステリにおける探偵役とは少し違うことに気づくだろう。一般的なミステリにおける探偵の最大の目的は事件の解決、さらに言うなら犯人の特定である。そのために死者の隠したものを暴くことはあるが、それはあくまでも手段であって目的ではない。一方で、アリスの言う探偵の目的は死者の言葉を暴きたてることである。そこには明確な差異がある。

 次節ではアリスが「死者の代弁者」である探偵として、どのような謎を解いて、何を明らかにしてきたかについて検討していく。そのため、『神メモ』シリーズのいくつかの作品についてネタバレをしつつ言及せざるを得なくなる。その点を了承の上読み続けていただきたい。

3 「たった一つの冴えたやり方」

 前節で『神メモ』シリーズではホワイダニットが中心であることを述べたが、それは事件の真相の性質にも起因している。

 『神メモ』シリーズにおける事件のほとんどは、実は死者自身によって何らかの意図をもって起こされているのである。そのため犯人はおらず(死者の死因の多くは何らかの事故や事件に巻き込まれるような形になっている)フーダニットは成立しない。そのかわり、死者が最後に何を思ってそのような行動をとったか、というホワイダニットに焦点が当たっていくのである。

 前節の例で言えば、第一巻での彩夏がなぜ学校で自殺を図ったかという謎がまさにそれである。第七巻の場合、ギンジの首がなぜ切られたかという謎については、実はホームレス狩りに遭って死が近いことを悟ったギンジが仲間に頼んで首を切ってもらったというのが真相であり、死者がなぜそのような行動をとったかというのが謎として浮かび上がってくるのである。

 このような謎を解き明かすからこそ、アリスは「死者の代弁者」を称するのである。死者やいなくなってしまった者(=語ることができない者)が隠したままの思いを、探偵として推理し、明らかにして「代弁」していく。それが彼女の言う探偵の仕事なのである。

 ではアリスが代弁していることとは一体何なのか、死者たちは何を隠したまま死んでいくのか。そこにはある共通項がある。

 彼らは自分の「居場所」を守るために死の直前、最後に行動を起こすのである。

 例えば第一巻で彩夏が学校で飛び降りた理由、それは屋上を閉鎖させるためだった。彼女が自殺を思い立った理由自体は麻薬事件に巻き込まれて麻薬のフラッシュバックに耐えられなくなったからだが、学校の屋上を死に場所として選んだのは、園芸部としてナルミと過ごした屋上を、自分が飛び降りることで閉鎖させて誰にも踏み込ませないようにする必要があったからだった。

 また第七巻でギンジが首を切らせた理由も、自身が過ごした公園の改装工事を引き延ばすためであった。ただ死ぬだけでなく首を切ることで事件を長期化させて工事の再開を遅らせるのが目的だったのである。

 彩夏にとっての屋上、ギンジにとっての公園、彼らは「居場所」を守るために最後の力を振り絞ったのである。

 他の巻の死者も同様である。二巻の草壁(死んではいないが監禁された)にとっての「ハローパレス」、三巻の羽矢野にとっての温室、六巻の花田勝にとっての「ラーメンはなまる」……。彼らも自分の「居場所」を守るためだけに無謀な行動に出たのだ。

 自分の命を賭した無謀な行動。それは作中の言葉で言うなら「たった一つの冴えたやり方」なのである。

 ジェイムズ・ディプトリー・ジュニアのSF作品のタイトルから引用された「たった一つの冴えたやり方」という言葉はアリスが死者の行動を表現するときに使うほか、「It`s the only NEET thing to do」ともじられて(原タイトルは「NEET」でなく「neat」)アリスの探偵事務所の看板に綴られているなど、シリーズを通して何度もリフレインされる言葉である。

 SF作品の方の「たった一つの冴えたやり方」でも、最後に少女は死を賭して基地を守ろうとする。『神メモ』シリーズでもこのような構図の話が多いのはこの作品による影響であろう。

 彼らは命を賭した「たった冴えた一つのやり方」で自分のいた場所を守ろうとする。アリスの探偵としての役目は彼らの言葉を「死者の代弁者」として掘り起こすことなのである。

 それではなぜアリスは彼らの言葉を掘り起こすのか、そして掘り起こすことになんの意味があるのだろうか。

4 「物語」としての推理

 ところで、話は少し横道に逸れるが、『神メモ』の舞台は渋谷だと推測されている。アニメ化に際してはハチ公像などが描かれていることから、アニメでの舞台が渋谷であることは明らかである。

 しかし、原作では舞台が渋谷であることは明言されていない。たしかに鉄道に関する描写や巨大な東急ハンズ、ホームレス排斥運動が問題となった公園(旧宮下公園)があることなどから渋谷だと推測はできるが、明言はされておらず特定の地名を強調するような描写は少ない。それよりも「東京のどこかにあるストリート」という、固有名詞とは堅く結びつかず、都会から近すぎず遠すぎない空間が描かれている印象を受ける。

 その理由について考えるとき、作者あとがきがヒントになるかもしれない。第九巻の作者あとがきで杉井光は、シリーズの構成について「都心を舞台に『池袋ウエストゲートパーク』を下敷きに」したと述べている[六]。

 石田衣良の『池袋ウエストゲートパーク』の舞台である池袋は、評論家の宇野常寛によれば「郊外」的都市である。宇野は郊外化が「街の風景を決定的に画一化した」とし、池袋は渋谷と違って都市としての歴史や固有の風景を持たない「都市でありながら郊外的な性格を強く持つ奇妙な街」であるとされた[七]。

 杉井の描く『神メモ』の舞台も『池袋ウエストゲートパーク』を下敷きにしたことで、渋谷という固有名詞が引き剥がされた「郊外的」都市となったのである。

 さて、ではこの「郊外的」都市はどのような場所なのであろうか。宇野は一言で「モノはあっても物語はない」場だとしている。それはゼロ年代の(宇野が乗り越えるべきとしている)「決断主義/サヴァイヴ系」が共有する世界観と相似のものである。

 しかし宇野は宮藤官九郎が脚本を書いたドラマ版『池袋ウエストゲートパーク』を分析し、むしろこの「郊外」には「決断主義/サヴァイヴ系」を乗り越えるような想像力が潜んでいると指摘する。宮藤の作品の郊外に暮らす人々は「モノはあっても物語がない」世界に、「郊外的」都市の持つ人々の流動性と凝集性をもって作り上げた「新しい中間共同体」を拠点とし、そこで共有される「物語」をつかみ取っているとする。この「物語」をつかもうとする想像力を、九〇年代の物語が失調してしまったとする想像力を乗り越える、ゼロ年代の想像力の一つだとした[八]。

 遠回りをしてしまったが話を『神メモ』に戻そう。

 前節で死者たちは「居場所」を守るために命を賭して行動していたことを確認した。では、彼らにとって「居場所」とはなんだろうか。

 学校の屋上、温室、ラーメン屋、公園。それは一見どこにでもある何の変哲もない場所である。それは郊外が街を風景に画一化したのと同様、どこにでもある風景である。

 しかし、そこにいる当人たちにとってはそうではない。そこには「ここ」にしかない「自分が居た」という「物語」がある。

 ところで、『神メモ』のストーリー展開では、この死者が守ろうとした居場所が「現在進行形の問題」として存続の危機に立たされていることに気づく。温室は園芸部の廃部とともに撤去されそうになっており、ラーメン屋も香港マフィアに店を潰されそうになり、公園も改装工事が進んでいる。

 ナルミの活躍によって「現在進行形の問題」が解決し、その場所が残ることもある(ラーメン屋はまさしくそうだ)。しかし中には公園のように(ギンジの目論見通りクリスマスまでの延期は成功したが)結局は改装工事が進んでいるはずである(現実の宮下公園も、現在では改装されてしまった)。

 死者が残そうとした「居場所」が残るかどうかはわからない。ときとして死者の行動は「自己満足」に過ぎなかったのかもしれない。

 しかし、彼らが遺したかったのは物質的な、モノとしての場所そのものではない。彼らが遺したかったのは「居場所」にある「自分がそこに居た」という「物語」である。

 だからこそアリスは「死者の代弁者」として、彼らの残そうとした物語を推理として紡ぐのである。

 彼女は残された謎を推理し、それが死者による居場所を守るための「たった一つの冴えたやり方」であったことを明らかにする。このとき、推理は新たな「物語」となるのである。彼女が謎を解くことで、どこにでもあるようなこの場所が、誰かにとっての大切な「居場所」として残り続けるのである。

 ここで先ほどの宇野の論に引き付けるなら、『神メモ』の世界は「郊外的」都市を舞台としているが、この空間が「モノはあっても物語はない」ところではなく、どこにでもあるような場所も、誰かにとってそこは大切な「居場所」であり、そこには「物語」がしっかりと存在している、そのことを証明するために、アリスは「推理」によって、失われかけた物語を復元し、「モノはあっても物語はない」という世界に抗っているのである。つまり『神メモ』は何もない「郊外」という空間に物語を見出そうとする、宇野の言う「ゼロ年代」的な想像力と、「推理=物語」という発想からミステリの形式をうまくかみ合わせることに成功した作品だったと言えるだろう。

 「居場所」についての物語を探偵であるアリスは語り続けていた。しかし、ただこの物語を復元するだけでは結局その物語は忘れ去られ、「居場所」は失われてしまいかねない。物語は語り続けられてこそ物語足りえるのである。

 そこで重要になってくるのが、物語の語り手である探偵の横で、物語に耳を傾けてきた聞き手、「助手」であり『神メモ』という物語の語り手であるナルミの存在である。

 最終巻である第九巻にて、ある事件によってアリスがいなくなってしまった後、ナルミは小説家になったことが明らかにされている。そして我々読者が読んでいる『神メモ』が、高校時代にアリスと経験した事件をナルミが小説にしたものだという設定だったことが告げられる。

 アリスの推理=物語は大勢の前で披露されるわけではない。基本的に依頼者と助手のナルミしかその物語を聞き届ける者はいない。しかし、ナルミが『神メモ』というアリスの物語を書くことで、アリスが語った推理=物語が読者へと伝えられ、何気ない場所も物語のある誰かの「居場所」だったことを記録しているのである。

 第二節で引用した言葉の通り、アリスによれば死んでしまったものやいなくなってしまったものに意味を為せる仕事ができるのは探偵と作家だけである。アリスは「死者の代弁者」として死者の物語を新たに紡いだ。そしてナルミは作家となってその物語を記録したのである。

 そして、この『神メモ』という作品自体も「今はもういない彼女の物語」を記すことで、アリスがいなくなってしまった後でも、この街はナルミとアリス、そして仲間たちが駆け抜けた大切な「居場所」であったことを物語として残しているのである。

 とにかく僕は、ここにいて、今はもういない彼女の物語を書いている。
 それは僕自身の物語でもあるし、僕を支えてきてくれた人たちの物語でもある。僕とすれちがって街のざわめきのなかに消えてしまった、幾千のもの名も知らぬ人々の物語でもある。こうして最初の出逢いからから最後の別れまでを書いてしまった今でも、僕にとっては茫洋とした流れのままで、そこに彼女の姿を見つけることではない。
 だから、遠くの場所で、遠く昔や未来からでも僕を見つけられるように、自分の欠片を物語にして、この世界に撒いている。[九]

 物語を記すこと、それはそこが誰かの「居場所」であったこと、それを忘れないように記憶することである。アリスが「死者の代弁者」として推理=物語を語り、ナルミがそれを『神メモ』という物語として読者に語りかける。ある種メタフィクショナルな構造をとることで、現実の読者も『神メモ』という物語を記憶していくのである。


[一] 杉井光『神様のメモ帳6』(アスキーメディアワークス 二〇一一年)二七三、二七四頁

[二] 杉井光『神様のメモ帳』(アスキーメディアワークス 二〇〇七年)六六頁

[三] 同書一五八頁

[四] 同書六五頁

[五] 同書一五七頁

[六] 杉井光『神様のメモ帳9』(アスキーメディアワークス 二〇一四年)

[七] 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫JA 二〇一一年)一六五~一六七頁

[八] 同書一六八、一六九頁

[九] 杉井前掲『神様のメモ帳9』三二九頁

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