無神論と虚無を超える存在の意義
世の無常と虚無感
過行くものとの関係:世を「はかなく、移ろいゆくもの」としてのみ認識することは、虚無感にもつながりえる。過ぎ去るものへの執着からの解放が救いにならず、絶望につながる要因。慈しみ、特に「慈しむことのできる目の前の存在」へそれが欠落すると、精神的な救いを見出せなくなることも多い。
慈しみ:過去の記憶や価値の継承を通じ、今の瞬間に意味を持たせる力をも持つ。人間の経験や関係性は一時的であるものの、その本質や存在への愛や慈しみがあれば、虚無感を防ぎ、また乗り越える力にもなる。持続的な価値を見出すこと。
本質と実体の理解
本質の探求:過行く実体に価値を見出すためには、その実体(「在る」ことの全体に部分に)の本質を理解することが重要。しかし記号的表面的に捉えられ、有意味な関係性が本質と実体とで切り離されてしまうと一時的な表層に過ぎなくなり、私たちの存在や経験は有意義と感じがたくなる。
持続的価値:一瞬一瞬はつながり、過ぎ去るものとの現在の価値は持続する。本質は永遠のものであり、実体に対してもこの視点があることで、時間の流れを超えた意義が見出せる。実体のその現象は瞬間瞬間にしか直には捉えられず、それが本質の理解につながる。
物事が常に変化し流動的であるとしても、その背後にある本質が何かを理解できれば、表面的な変化や消滅に対する虚無感を克服し、存在に対する価値を見出すことができる。
執着と慈しみの線引き
執着:特定の対象や結果に対する強い依存を伴い、その対象を失うことで苦しむことが多い。これに対し、慈しみはその対象の存在や営みを尊重し、自由に関係を育むことを意味する。
慈しむことの重要性:他者に対する理解や受容を含むため、執着から解放された状態で存在できる。これにより、より豊かな関係が築かれる。
無神論とニヒリズムのつながり
価値の置きどころ:無神論者は、神や超越的な意味を否定することで自己の価値や目的を他の要素に見出そうとするが、その基盤が脆弱である場合、失敗や喪失がニヒリズムにつながりえる。その価値は一つの固定された枠組み(神や宗教的な意味)に依存しないため、絶対的な基盤を持たない。これは一方では自由をもたらすと共に価値を創造し続ける責任も課す。そのため自己の価値や目標が崩れた場合、すべてが無意味に思えてしまうというニヒリズムの危険がある。
内面的な価値の重要性:ニヒリズムに至る過程で、内面的な価値や他者との繋がりが見落とされがちであるため、これを重視する必要がある。内面的な自己の意義、他者との深い繋がりや共感。他者との関係性や共同体に根ざした価値は、無神論的な文脈でも豊かな意味を生み出すことが可能。
無神論における価値の基盤が個々の内面や関係性に重きを置く場合、それは社会的・人間的な営みの中で意味を創造するプロセスを重視する。超越的な神を前提としなくても、人間の理性や倫理的な生き方を強調した価値を確立することができる。
実感と客観化のバランス
実感の喪失:客観化や達観が進むことで、時間が経つにつれ、時間との関りが薄れるにつれ、対象との隔たりが生じ、自己の存在感が希薄になる。この隔たりは現実との接点を失うことにより、つまり現実を単なるデータや情報として扱い、そこに感情や経験が介在しないときに生じる。自分の感覚や存在の疎外。
具体的な経験の重要性:具体的な経験や関係性を大切にすることが、その経験を通して実感を得ること、そして客観的に物事を捉える視点とを交互に持つことが、健全なバランスを保ち、自己の存在感を強め、深い実感を得るためには重要。
存在への価値認識と慈しみの営み
存在への価値:「空」が充実に結び付くことは重要。しかし、存在への価値を認識できなければ、慈しむことができず、それは虚無感につながる。
空は忘却(身にして忘れる)。身体や心が無意識に自然に働く状態、言語や記号を超えて全体を把握し、無為に営むという境地。その前提としての善の理解。あらゆるものがそこに存在し、流れゆく。
固定された実体がない、全ての存在が関係性の中で相互に影響し合い、変化し続けるという無限の可能性。この「相互依存」の認識が、存在そのものへの価値を見出す視点を与える。単なる個々の孤立したものではなく、全体と繋がり、関わり合うものとして捉えられる時、その存在の価値は固定的ではなく、流動的で豊かなものになる。
慈しみの営みの必要性:存在への価値を認めるためには、「慈しむ」ということの実践が重要。どうすれば慈しみの心が育まれるのか、それは日々の営みにおいてであり、従って「慈しむ」という意識と実践が先決となる。これを重視することが、他者との関係を深め、尊重や共存へとつながってゆく。