超越的なものの理解と実践
既存の体系を否定することなく、超越的なものを理論として捉え、科学や哲学と調和させ、認識を補う枠組みとしてフィクションを活用し、理解と実践に結びつける試み。
「神は人格的な存在ではなく、宇宙の秩序や自然の法則として仮に捉えることのできる、捉えきることのできない永遠のもの」から、「死ぬもの死なぬもの含め、全部一」とする理解 。位格理解は総合的に見て、枠組みとして捉える。三位一体としてのではなく、一のうちに存在し関連しあう、視点や仕組みの理解として。
「神と位格のレイヤー」。神は全体として存在し、位格はレイヤー(其々の視点)として捉える。全体のうちに様々な役割、自然法則や概念などが異なりつつ遍在する。互いに排他的なものではなく、相互に関連し合う機能があり、それらが統一されて神として自然として「在る」。
神としか言いようのない、「神を人格的な存在ではなく、宇宙の秩序や自然法則として仮に捉える」のため、神はいないということは言えず、神としかいい得ない、「神と言い表すのが妥当な存在」、ということになる。それは永遠に存在する。
これにより、信仰や哲学は現代の科学や技術とも調和し、深い理解と実践に結びつけることができる。
人間、被造物といった処理可能なものは流動的で、一時的に「有限な形態」をとる。神から生まれる(神の一部が、処理可能なものと捉えられるものに形作られる)ため、在るものすべて神と捉える。実体が無くなれば神に帰るとの表現になる。それは状態変化であり、処理可能なものから処理不可能なものになること。
全体としては、スピノザとストア主義の折衷の価値観を中心に、フォイエルバッハやトレルチの枠組みによって、世界を認識する枠組みとしてのフィクション(様々な根拠に基いた、ノンフィクションに近いフィクション)としてキリスト教を理解する。簡略化され、認識しやすくされた現代的な視点に基づいた理解と、信仰に基づかなくても理論として受け入れやすい点から。
その上での、実践に重きをおくために「人間自身の投影」として捉えたキリスト教理解。人間が到達し得る、高みを目指す試みを導いてくれるものとしての面の強調。ルターの「内面的自由」、「信じて行う」や、エックハルトの「内なる神」、「範型としてのアダム」が参考になる。
「処理可能なもの」がその体によって、「処理不可能なもの」を理解するために、そして永遠にたどり着けない神との合一を目指して生きる。処理不可能なものは「神そのもの」で、その理解や実践は直接的には不可能、信仰に基づき、直観や神秘的な体験をすることができる体を通して、あるいは科学を通して捉えられた理論や法則を用いることで、被造物である人間は間接的に理解や実践に近づくことができる。
それにより、理論や法則、そして範型としては、後々の世まで限りなく存在できる。個としてではなくても、理論や法則に貢献できたと思えば、それで永遠に加われたと思えるために、そういう「神としかいいえないもの」に合一とまでは言えないにしても近づくこと、そして導く存在になるということを目指して生きるということ。
死ぬものが、死なないものに従う。人生の儚さを認識し、永遠に存在するものに従う。
実践に於いて重要となるものの一つである「尊重」は、自分と他者を、断絶をつなぐもの、介するもの。 これは精霊の働きを、人と人の関係性として捉えなおしたもの。精霊は意識に働きかけ、客観的正しさや善さと人間を媒介し、つなぐものになる。 尊重の意識は、理解や共感を湧き起こし、他者とのつながりを強くし、断絶を防ぎ、また回復をも促進させる。
それには「尊重」と「主体性」のバランスが重要。尊重には限界もあり、必ずしも相手にとっての望ましい行動を促せるとは限らない。最終的には個々人が自分自身の判断と主体性に基づき、行動を決めていく。
範型は自律的な生き方を示す。その範型と人とを結ぶのが精霊の働き。精霊も強制力は持たず、汝自身を導いてくれる存在。精霊も尊重も媒介するものであり、精霊は神の正しさを汝自身に働きかけ、信仰に基づいて行動する様に導く。尊重は自身に働きかけ、自身が他人に働きかける為の媒介となる。そして、隣人への働きかけが広がり、社会への働きかけになる。
以上、包括的な認識枠組みによる信仰と科学の架橋、超越的なものの認識、世界認識の枠組み、有限な人間の役割と無限との関わり、信仰を通じた合一、超越的なものの働き、社会への貢献、という一連の実践までの道を概観し、一例として示した。
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