任意入院で閉鎖病棟だった
このnoteの前に下のURLのnoteを見ていただきたい。入院する少し前の話である。勿論読まなくてもいけるが先に目を通していただけたら幸いである。
https://note.com/albino0108/n/n3b67f757ca79
止まらない体重減少。不安定さは激しさを増し、希死念慮からアームカットやプチOD、徘徊など自傷も衝動的にしてしまっていた。
お盆前の診察で入院を勧められた。任意入院という形だ。
精神科の入院には自分の意思で入院する任意入院と、精神保健指定医や行政の判断と家族の同意で行われる措置入院や医療保護入院がある。この辺りはGoogle先生が詳しく解説しているので検索していただきたい。措置入院や医療保護入院は強制入院と呼ばれ状況によっては拘束や隔離、薬による鎮静が行われる。
精神科の病棟には2種類ある。解放病棟と閉鎖病棟だ。持ち込み可否やルールなどは病院によるため一概にはいえないが、これだけは共通している
解放病棟は病棟への出入りが自由。閉鎖病棟は病棟出入口に鍵がかかり自由に出入りできない
閉鎖病棟だと病棟外に出るには看護師の付き添いや許可が要るのだ。勿論患者の状態によっては外出や売店などでの買い物すら許可が降りない。そもそも隔離や拘束、保護室などだと病室から出ることも許可されない場合もある。それもざらに。
前置きが長くなってしまったが、私は任意入院という形で入院になった。
閉鎖病棟に。
閉鎖病棟である。「自らの意思で閉鎖的処遇での治療を希望します」とかなんとかの仰々しい書類に名前を書いた。
解放病棟に空きベッドがなかったためである。一応付け加えるなら、自傷の激しさや希死念慮は高いが、措置入院や医療保護入院に該当する程ではない。
病院によって病棟や病室への持ち込みの可否が分かれる。私の入院先は比較的厳しく、閉鎖病棟での私物や荷物は基本看護師管理。主治医の許可で衣類や日用品の自己管理になる仕組みだ。貴重品、スマートフォンは看護師管理で閉鎖病棟では絶対許可されない。なので閉鎖病棟の患者はほとんどの場合金銭を病院で管理するサービスに加入する。(手数料がバカ高い)歯ブラシやシャンプー、石鹸、洗濯洗剤、ティッシュなど消耗品の購入が出来ないからだ。若しくは家族が面会の度に消耗品の差し入れや洗濯を代行する。
私の実家は県外。コロナ禍で家族が来ることは不可能。なるべく持ち込みをしていった。許可が下りるかは別としても。ラッキーなことに(?)任意入院なので基本はほとんど許可が降りた。いつも持ち歩いていた市販薬や日焼け止め、電動のフェイスシェーバー、爪切りなどはダメだったが…
解放病棟に空きベッドが出来るまで閉鎖病棟で過ごすことになった。
カヲスofカオス。閉鎖病棟に2週間ほど居たが結局何人この病棟に居るのかよく分からなかった。そもそも保護室(病棟での呼び名)は鉄の扉で自動施錠だし。そこがさらに個室になっているらしい。絶えず叫び声や奇声、壁(ドア)を叩く音、看護師の「手を離しなさい!」「やめなさい!」と声が響いていた。
保護室とは別の隔離室と呼ばれる個室もあり、そこは一般病室と同じドアだったが、外側のみしか鍵がなく、内側からは開けられない仕組みになっていた。トイレも中にあり、ほぼ出ることが許されてない方が入っているらしい。(ちなみに保護室はトイレがないためオムツとなるらしい)
一般病室は四人部屋と二人部屋があり、同性で部屋割りされていた。ナースステーションを中心に右側が男性。左側が女性だった。
病棟は騒がしかった。絶えずナースステーションの周りを徘徊している人。ぶつぶつとなにか呟きながら宙に手を振ったり曲げたりと忙しそうな人。びっしり紙に数字を書いてる人。髪の毛をずっと抜いている人、にこにこと話をしていたのに突然ぶちギレ手元のプラコップを投げる人。夜中に「殺してやるー!」と叫ぶ人。デイルームで脱衣する人。視線が合わずうわ言のように1人しゃべってる人。
調子の悪いときは豹変するが穏やかな時はごくごく普通の人なのだ。会話も噛み合う。視線も合う。それでもなにかをきっかけに突然豹変する。ベッド柵をぶん投げていた人はベッドに拘束されていた。
重度の認知症と思われる方もいた。知的に障害のあるような人もいた。障害年金が少ないとぼやいていた人もいた。年単位で長期で入院してる人がほとんどで、20年ぐらい居ると思うと話す人もいた。ほとんどの人は入院の経緯は覚えてないという。暴れて気がついたら拘束に点滴でここだったとか。警察に通報されて気がついたらここの保護室だったとか。社会生活という大きなくくりに居れなくなってしまった。と否が応にも感じる
「こんなとこは長く居ちゃダメよ」
デイルームですれ違った初老の女性が私を睨み付けながら言った。睨んでいたのは不調だっただけじゃないのかもしれない。その眼は怒りとかじゃなくて真剣さを孕んでいたような気がする。
お前のようなやつが来るところではない。そういうことだろう。
事実、不安定な自分は保護室や隔離室から漏れる叫び声やドアを叩く音、モノが当たる音、デイルームでの奇声に怯え、パニックになり、涙目で頓服を貰いにいくのを繰り返していた。1日の上限になってしまい最後の手段として処方されてる鎮静効果の強い筋肉注射を打ってもらい、OD後のようにトリップした感覚で眠る日も多く、眠ってるがゆえに食事も摂れず点滴を繋がれる始末だ。
落ち着いてる日もふとした瞬間に休職していること、退職を勧告されてること。仕事を途中で投げ出す形になったこと、やりたかったことがまだあったのに。実家に帰りたくないこと、トラウマのこと、フラッシュバックのこと。お金のこと、これからのこと、父親からは理解を得られずせっつかれてること、焦燥感にかられてること、泣きじゃくったりボロ泣きしながら看護師さんに話しまくっていた
全部受け止めてくれて、共感してくれて、否定せず、ただ背中をさすってくれて、手を握って「あなたは悪くないよ」「頑張ってきたんだね」「ゆっくり休むときだよ」と何度何度も繰り返してくれた。何度も泣きじゃくる私に。
病室にもデイルームにもフロアのソファーにも私が落ち着いて過ごせる場所少なく、ナースステーションの近くの椅子に座ってあわただしく動く看護師さんを目で追って気を紛らわせていた。受け持ちの看護師さんや病棟の看護師さんも担当医の先生もケースワーカーさんも私がここにいても好転しないのはわかっていた。空きベッドがでるまでの2週間。部屋の隅で独り言や叫び声や自己嫌悪に怯えて泣きじゃくっていた
それでも落ち着いてる患者さんが声をかけてくれたり、挨拶を返してくれたりとそれなりに仲良くなった人は出来た。調子のいいときだけしか会えないけど。目の前で豹変するのはなかなか堪えた。
本当はみんなとっても優しくて純粋で真っ直ぐでそこにいろんな事象や事柄があって変えてしまっただけなんだ。持って産まれた障害が豹変させてしまうだけなんだ。先天性にしろ後天性にしろ本人が一番苦しくてしんどくてもがいているはずなんだ。
それを外野があれこれ言うのは間違いなんだな。美談にするのも違うし、お涙頂戴のダシにするのも違う。外野が出来ることはきっとほとんどない。強いて言うなら見守るのとそっとしておくとかそういうことだろう。
空きベッドが出たので下界と揶揄される解放病棟に移った。
スマホの電源を入れると山のようなLINEの通知。インスタやTwitterのDM、コメント。音信不通になった私を心配する内容だった。入院を伝えていたわずかな友人は体調を心配する内容だった。
「死にたい」「消えてしまいたい」と死を願ってカミソリやアルコールや処方薬を手にしてベルトを首に括ったりとしていたというのに。そんな私を心配する友人がこんなにいることにまた泣いた。頓服も筋肉注射も要らない涙だった。
「死に損なって良かった」
申し送りやカルテやらで付き添ってくれた閉鎖病棟の看護師さんにぽろっと溢すと看護師さんが涙目で頷いてくれた。
「生きてるだけで十分だよ。戻ってこないでね」
そう言って手を握ってくれた。暖かい手だった。私は涙でなにも言えず頭をただ下げるだけしか出来なかった。
解放病棟に来てレクリエーションやリハビリなどに参加する機会が増えた。
院内と敷地内は自由に移動できるので売店に言ったり廊下から外を眺めたりしている。
叫び声もドアを殴る音も怒鳴り声も抑制もない。落ち着いて過ごせている。父親の理解は相変わらず得られないし、職場は残ってる有給を消化させずに退職させようとしてる。貯金も限りがある。険しい足元だし問題は転がってるけど凪いだ海のように過ごせている。時々波があるけど。きっと大丈夫。生きてるだけで十分だし生きてるだけでいいんだから。再スタートを切るために緩く歩みを進めていこう。転んだっていいさ。1人じゃないんだから。