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#9 濵高康明『震災からもうすぐ一年』
早いもので、もうすぐ震災から一年が経ちます。この一年はこれまでで最も早く、内容の濃い一年でした。当時僕は珠洲市にある祖母の家に親戚一同と集まっていました。楽しく過ごしていた矢先、16時10分頃震度7の揺れに遭いました。過去に震度6強の揺れを経験していましたが、比べ物にならないくらい大きな揺れでした。家の壁が割れ、家が潰れていく様子に命の危険を感じ、急いで逃げようとしましたが、強い揺れで襖が開かず、素手でガラスを殴り、跨いで逃げました。その代償に、手首を7針縫う怪我をしました。
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外に逃げることができたものの、1人で出てきたので家族はまだ家の中。大声で「早く出てこい!」と叫んだのを覚えています。当時の外の風景は今でも鮮明に覚えています。大地が揺れているとは、まさにこのことだと。家族が外に出てきたのと同時に、大津波警報が鳴りました。その時初めて、事の重大さを認識しました。
全員で車に乗り、近所の高台へ向かいましたが、車が渋滞していました。坂が地割れして通れないのです。車を乗り捨て、徒歩で向かうことに決め、僕も必死に手首から流れる血をタオルで押さえながら歩きました。高台に上がり、海の方を見ると砂煙が上がっていました。津波で飲まれた家の砂煙だと認識し、恐怖を感じたのを覚えています。
少し落ち着いてから、病院で怪我の治療をしてもらいました。その時のドクターと看護師さんの余裕のある声掛けは今でも忘れません。すごく心の支えになりました。病院でも避難ができると聞き、家族全員で二日間、病院の待合室で避難生活をしました。長くなるので避難生活については省きますが、一言で言うと、長く、寒く、恐怖の時間でした。
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1月3日の朝、金沢方面への大移動が始まりました。土砂崩れによる通行止めが解除されたと聞き、多くの人が移動を始めたのです。ガソリンスタンドは最後尾が見えないほど並び、穴水への道はとてつもなく長い道のりでした。珠洲市を9時に出て、穴水に着いたのは夕方4時。本来50分で着くはずの道のりを7時間かけて移動しました。
穴水の家に着き、目の前の光景に衝撃を受けました。言葉になりませんでした。納屋は傾き、ひどい地割れ、家の中はぐちゃぐちゃで、どうしたらいいかわからない、ただそれだけでした。そんな中でも時間は待ってくれません。すぐに暗くなってしまうので、まずは寝れるようにと、居間だけ綺麗にしました。
電気はなく、水も出ず、ガスも使えず、過酷な日々が始まりました。数分ごとに起きる余震で寝れるわけもなく、毎日ほぼ寝ずに過ごしていました。電波もなくケータイも使えない中、僕がやっていたのは火事場泥棒の確認です。田舎の集落にもやはりやってくるのです。夜中、怪しい車が入ってきた時や、真っ暗な中に灯りが照らされた時は、父と兄と一緒に外へ出て泥棒の確認に行きました。恐怖でいっぱいでしたが、町を守るために行かざるを得ませんでした。
幸い僕の家は兄弟が多く、兄弟が毎日金沢から食料を運んでくれたので、食料には困りませんでしたが、パンやカップ麺レトルトカレーなど、そういったものでした。他にも知人が金沢から食料を持ってきてくれたりと、本当にたくさんの方に助けていただき、人の繋がりの大切さ、温かさを感じました。
そんな生活を七日間送り、1月7日、家族を残し僕は兵庫に戻りました。理由は、石川でできなくなってしまったリハビリを兵庫の病院で再開し、またバスケをするためです。正直、僕だけが逃げるようで嫌だとも思いましたが、両親がチャンスをくれました。
兵庫に着いてからも本当にたくさんの人に助けてもらいました。家を半年間貸してくださった方、リハビリをしてくれた病院の方々、コートを自由に使わせてくれた方、他にも沢山の方が僕を助けてくれました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。その後も僕は兵庫と能登を往復し、支援物資を運び続けました。その時もたくさんの方に支援物資を寄付していただきました。
バスケに復帰するために、毎日コツコツリハビリとバスケに専念しながら、6月末まで兵庫で過ごしました。そして、ご縁あって新潟アルビレックスBBに入団することができました。
震災を経験し、気付いたことが3つあります。
それは、
「当たり前はない」・「必死」・「人と人との大切さ」です。『当たり前』だと思っていた日常は当たり前ではなく、当たり前にプレーをすることも、絶対に当たり前ではないということ。震災で『必死』に逃げた時、これまで僕が必死と思ってやっていたことは一体なんだったんだろう…と感じ、『必死』の本当の意味を知りました。そして、本当に苦しい時に助けてくれるのはやはり〝人〟でした。震災から『人と人との大切さ』を学びました。
僕が震災で気付き、経験したことをこれからの人生に活かして生きていきたいと思っています。そして、震災を風化させないためにも、こうして発信し続けていきたいです。いまコートに立てていることは奇跡ですし、僕には運があるなと感じます。怪我から、そして地震の時もサポートしてくれた全ての方々に感謝し、これからもプレーしていきたいと思います。
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能登はまだ復興途中です。いつかまた、自然豊かで綺麗な街、人情味あふれる街に戻していきたいので、ぜひ応援をお願いします。
『能登へきまっし』