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コロナ下でも、どうしても「体験」が大事だと思う理由


私は今、危惧していることがあります。
それは、子どもたちの各種行事が中止になっていることです。運動会も、遠足も、社会科見学も、学芸会も、中学生の職場体験も修学旅行も中止になりました。

もちろん、休校によって算国理社の進みが遅れたのも残念ではあります。

でも、私はこれらの行事がなくなることの方がもっともっとずっと影響が大きいのではと心配しています。

体験することがなぜ大切なのか?体験を通じて得られるものをまとめると下記のようになるかと思います。

その1 「非日常」による心の発達

子どもは非日常で「なにか」に出会います。
豊かな自然の中で育っている子どもたちはまだ幸せですが、コンクリートジャングルの中で育ち、学校が終わってからも塾や習い事に忙しい都会の子たちには、一服の清涼剤が必要です。逆に刺激が少ない場所で育った子たちには、たまに都会の雑踏を知ることも必要でしょう。
双方ともに旅行して訪問できれば良いですが、その機会がなかなか持てない忙しいおうちの子どもたちにとって、行事で「非日常」に触れ、心を動かされたり、友達との絆を確認することはとても大きな意味があるものです。

その2  百聞は一見に如かず

子どもたちが学校の受け身の授業の中から、学ぶ楽しみや好奇心を見つけられれば、それに越したことはありません。でも教科書で読んだり、テストのために覚えるより、実際に自分の「目で見た」もの、その場で「聞いたもの」の印象の方が強く激しく心に残ることでしょう。こんなに大きかったのか?へえ知らなかった!という驚きと共に、記憶に定着することになります。さらに事前事後にデータや文章で補足したら、最強の学びになるでしょう。

その3  「肉体語」が可能になる

何かを見て心を動かされると、人は別の誰かにそれを伝えたくなります。家庭や学校での会話でその内容を言語にし、表現するプロセスを経ることで、自分の体を通った感想が生まれます。
博報堂で長らくキャッチコピーを書いておられたひきたよしあきさんは、この自分の体を通った言葉を「肉体語」と呼び、文章でも話し言葉でも最強の表現となると書いておられます。このような自分だけにできる「アウトプット」を可能にするためにも、非日常な「インプット」が必要だと考えられます。

「緑がまぶしくて、目がチカチカした」「鳥のさえずる声の大きさに驚いた」というのは、いずれも自分の体を通って発せられた言葉です。
読書感想文を無理に書かせるより、ずっとユニークで強い表現ができることでしょう。

将来の収入を左右する可能性も

尊敬する教育社会学者の舞田敏彦教授は、以前、所得層ごとにアンケートをとり、子どもの頃に何をしていたかを調べておられました。面白いのが読書よりも体験の差が有意な違いを生んでいるというもの。
もしコロナにより各種行事が中止になったら、各家庭ごとに子どもにさせてあげられる体験に大きな違いが生じ、教育格差を増幅させるのではないかと危惧します。

https://dual.nikkei.com/article/106/44/ (日経DUALより引用)

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オンラインでの実験

なんとかコロナ下でも、「体験」をさせてあげられないか?そう考え、私が運営するオンラインおうち学校では、5月より「オンライン社会科見学」を実施し、これまで博物館、美術館、動物園、といった施設や、ルワンダ、インドネシアといった海外、サンゴ礁を育成する企業などを子どもたちと双方向でつないで授業を実施してきました。

これに対して、本来は五感をフルに使うのがあるべき体験だ、というご意見もいただきます。そうなんです。オンラインでは、五感の中の触感と臭覚はどうしても難しいです。
ただ、視覚や聴覚や何より探究心・好奇心を満たすしかけは、何もなくなった今となっては、何かしらの形で大人が代替策を提供すべき分野だと思っています。気付いたら教育格差が広がっていた、なんていうことが起きる前に挑戦していきたいのです。

「コロナで行かれないから感動した」「実際に行ってみたくなった、コロナが収まったら行ってみたい」という子どもの声が何よりもの励みです。

心を揺さぶるような体験が、記憶にしっかり残り、それを言語化できたら。
その体験は一生ものになると考えます。

私たちにできること、できそうなこと、ぜひ皆様からもお知恵を拝借できたらと思っています。お力を貸してください。



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Aska
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