話を聞くということ。
デジャヴ。非常にデジャヴ。そう思うのも無理はない。
2020年頃、某SNSのフォロワーからほぼ毎日愚痴を聞かされては心が穏やかではなくなり、それから数年経った今、今度は別の人からほぼ毎日愚痴を聞かされては心が穏やかではなくなっているから。それでも、今はひとりではないから、あのときと比べるとまだ穏やかの方である。
僕は話をするよりも話を聞く方が好きだ。相手に通じる話を構築するのが昔から苦手で、それだったら話を聞く方がいいと思っていたら、話を聞く方にハマっていた。まるで小説を読んでいるかのように、人のする話が面白く感じられる。第三者あるいは壁として僕がいたかのように、話をされたらすぐにそのとき状況が浮かぶ。
人から聞く話には、楽しい話もあれば、愚痴もある。どちらも受け入れていたが、恐らくどちらにも深く入りすぎているのだろう、聞く度に感情がかなり動いた。まるでその話をしている人に憑依したかのように感情が動いて、話を聞いていくうちに、自分が自分ではなくなっていく。
愚痴を聞くとき、ひとりでいない方がいいとかつての経験から思った。ひとりでいたときは、その感情に飲み込まれた……いや、溺れたと言ってもいい。非常に苦しかった。だが、僕は話すことを苦手としているため、その苦しみを発散することができない。愚痴を聞く度にどんどん苦しくなっていく。
愚痴を聞くだけなら、まだ良かったのかもしれない。会社のストレスも重なって、元弊社を辞める数ヶ月前にプツッ……と糸が切れたような感覚がし、それからずっと、「誰も『僕』を見てない。誰も僕のことを理解してないんだ」という気持ちに苛まれた。それにより、急に叫びたくなったり、物を壊したくなったり、「今日死のう」と考えるようになったのだと思う。
今の自分が「やばい」と気づいたあとは、会社からも、某SNSのフォロワーからも逃げた。これ以上関わっていたら、間違いなく僕は死んでいたと思うくらい、その当時は「やば」かった。逃げ切ることができたようで、それ以来会社からも、某SNSのフォロワーからも連絡が来ていない。
それから何年か経った今、何の因果か、再び愚痴をたくさん聞くということになっている。また感情に飲み込まれ、苦しくなる。だが、返事を遅らせたり、飼い猫を撫でたりすることで、多少気を紛らわせている。苦しいことには変わりないが、ひとりだったあのときよりはずっとマシだ。
僕もnoteや某SNSで愚痴を吐いているので、あまり強く言えないが、愚痴は良くない。その愚痴を聞く対象が一人だと余計に良くないと思う。僕のように苦しむかもしれないから。