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ぼくのアサヒカメラ! & カメラ雑誌全般

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2020年新型コロナ渦中突然休刊したカメラ雑誌アサヒカメラ。90数年の歴史のなか、僕が最初にかかわったのが1972年。それから断続的に口絵やTEXTが掲載された。表紙はたしか12…
この「ぼくのアサヒカメラ 」を一度購入すると、最低月2本のアサヒカメラ にまつわる記事が読めます。…
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#アサヒカメラ

06 ぼくのアサヒカメラ 1974年 、アシスタントの最中にアサカメに4p掲載された。

1972年の1月から篠山紀信(敬称略)のアシスタントをしていて、入った時、2年で独立しようと思…

師匠 篠山紀信さんが亡くなった

篠山さんが亡くなった。 2024年1月4日 先日、ブルータスに沢渡さんと写っている姿を見て心配…

07 ぼくのアサヒカメラ

このころ僕は、カメラ雑誌は全く興味がなかった。 アサヒカメラ1982年8月号 モデル 文 安…

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01 ぼくのアサヒカメラ ”どさくさ休刊”

1926年(大正15年)4月に創刊されたアサヒカメラは、戦時休刊があったものの94年間続いた歴史…

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02  ぼくのアサヒカメラ 休刊のつづき

アサヒカメラは、どこで読んだか忘れたが、公称3万数千部で、推移していたらしいが、このとこ…

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03 ぼくのアサヒカメラ 頑張れ!日本カメラ!

アサヒカメラ亡き後、日本のカメラ雑誌の盟主は名のごとく日本カメラだ。 ぼくはいつも二ホ…

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04 ぼくのアサヒカメラ アサカメは一番じゃなかった!

高校時代は全く写真とは関わっていなかった。 ブラスバンドでフルートをやっていた。 そのころのブラスバンドはコンクールと応援なので、基本、演奏する曲は行進曲が7割ぐらいだ。 金管楽器の音量がすごく、 行進曲の時は、僕はいつもピッコロに持ち替えた。フルートを吹きながら歩くのは格好悪い。 吹奏楽部はは運動部ではないけれどほとんど同じだった。 1年の時は、部が終わってから机の上によく正座させられた。 子供の時から完全椅子生活だったので、 正座などしたことがない。油汗がたらたらでた

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05 ぼくのアサヒカメラ 表紙のモデルになり、小さなカットだけれど掲載され名前が載…

1972年、23歳、アシスタントになった夏、篠山さんは募集した読者と旅を企画した。この年1年…

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