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06 ぼくのアサヒカメラ 1974年 、アシスタントの最中にアサカメに4p掲載された。

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1972年の1月から篠山紀信(敬称略)のアシスタントをしていて、入った時、2年で独立しようと思っていた。2年あれば、技術的なことは覚えられる。1972年の夏にはチーフだった高橋昇がケガから復帰した。僕は宮城谷好是にすべてを教わっていたので、彼には忠誠心があるものの、高橋には全くなかった。高橋は六本木スタジオ出身だったので、仕事が忙しくても何かとスタジオにエスケープしていた。篠山事務所は六本木の1スタの上の三階にあって、同じフロアに沢渡さんの事務所があり、助手部屋と暗室が共用だったことは前回書いた。篠山紀信も沢渡朔もスタジオ付きの事務所にいるようなもので恵まれていた。1972年の10月篠山紀信「ハイマリー」が出版される。そのあと宮城谷は独立する。1973年10月第四次中東戦争勃発、トイレットペーパーが町から消えた。実は写真界にとってはそんな生易しいことではなかった。フィルムや印画紙がなくなってしまった。ペーパーと同じく、なくなるからと皆がストックした結果だ。そのころ高橋昇は独立するところだったが、思いどとまり半年延長した。僕はすで下がいたいのでチーフになれると思いがっくりした。予定ではあと1年、チーフをして、1974年中には独立するつもりだった。生意気だが自信がっあった。これでフリーになるには半年遅くなる。高橋が1974年春独立して(プロフィールには75年とあるが間違い)僕も75年春に独立するつもりだった。ところが事件が起きた。セカンドだった宮口友夫が(彼は七人の侍の剣客、宮口精二の息子だ))の外国人の奥さんに子供ができてしまったのだ。彼が結婚していることは知っていた。都立大の一軒家に住んでいて、アシスタントの分際でリッチだなと思った。住んでいた家のリヴィングの写真が「あの日の彼、あの日の彼女」にある。ある日、篠山さんに呼ばれて、経済的なこともあり、奥さんが働いて宮口君が主夫をるので、アシスタントをやめることになり、僕にあと1年いるようにとのことだった。これでまたフリーになるのが伸びる。結局ぼくは1975年の9月1日独立、晴れてフリーになった。ちょっとした年月だが、若い時にはたった半年でも短く感じる。遅くとも26代で独立はあせりがあった。この写真は、1974年に掲載された。篠山さん担当の、江幡さんが、横木君何か写真撮ってないとの?と聞くから前年撮ったばかりのサーキット族の写真を渡した。10点ぐらい渡したが、アシスタントの身、忙しかったので何が選ばれたかは、出版されるまでわからなかった。
一番気にいっている写真が、選ばれなくてちょっと残念だった。今見ると、こうやって4Pを広げてみると、つながっているようで面白い。実は僕が一番気に入っている写真はこれだ。普通外さないよなと。

背景はマツダサバンナロータリー
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ブラックエンペラー このころはまだメディアからは「暴走族」とは呼ばれていなかった。「サーキット族」と呼ばれていた。ただかれらはブラックエンペラーということは、すでに暴走族だったのだろう。
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暴走族というより、大学の自動車同好会といった雰囲気だった。海老名に集まる連中は後の暴走族よりリッチだった。
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ハッセルブラッド500CMに、ディスタゴンの50mm。ストロボは、ナショナルP型1灯。直トレ一等。レンズのすぐ上に。車はマツダルーチェ。これもロータリーエンジンだった。リアライトを豪華に増灯している。このグループは基本リーゼントが多い。
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この車はなんだろう。ファミリアかな。ちょっとわかりずらい。

タイトル、「パーティ」。Party
このころ篠山さんのハッセルブラッド500CMでたむろしていたり、
カップルの同世代の群れている連中を撮っていた。これは1973年のサーキット族だ。まだ暴走族という言葉はなかった。
撮影場所は土曜日の東名高速海老名サービスエリアのパーキング。どこで知ったか忘れたが、何かで読んだのかもしれない。
彼らは毎週末集まり、ノーマルタイヤでやってきて、
海老名のパーキングでレーシングタイヤに履き替える。
前のナンバープレートを外したり、後ろは見えないようにする。レーシングスタイルになると、東名本線に飛び出し厚木料金所までぶっとばす。
かつては料金所の手前のセンターラインが開いていてい、そこでUターンできた。Uターンして東京料金所の前にターンし、海老名に戻ってくる。
北陸のほうでは夜中道路をサーキットのように暴れまわるので、
サーキット族と呼ばれていた。
こうしてみるとバイクの連中は、ブラックエンペラーと書いてあるのでその後の暴走族だ。もっと昔だったらカミナリ族というところかな。
暴走族と違うのは下から2番目の写真、男子に囲まれたつなぎの女子が、暴走族というより、リッチでどこかの大学自動車部みたいな雰囲気で、
やはりこれはサーキット族と呼ぶのにふさわしい。
僕の正式なアサヒカメラデビュー作だ。その前にカメラ毎日に載ったので、これはカメラ雑誌第2作目といえる。

実は、僕の父親は、朝日の新聞記者だった。
僕が小学校に上がる前に社会部で警視庁の裏のビル、
そこの内政クラブにいた。
僕がロバートキャパの最期を書くため、国会図書館で調べ物をしている時、1954年のアサヒグラフに記者クラブという内輪のドキュメンタリーがあり、横顔が父親に似ている男が「これ月末ばらいでね」とネクタイを買っている記事があった。
電話で母親に聞くと覚えていて、安物のネクタイ買っているところでしょうと笑っていた。
キャパを調べながら若き父親に会えたことがうれしかった。
父はその後、警視庁のキャップになり、
ときおり朝日の旗のついたハイヤーで市川の家に戻ってきた。
同じころテレビで人気ドラマ「事件記者」が放送されていた。
新聞記者ってかっこいいな、と思ったが、
勉強が嫌いだった僕は、きらいというより、まったくしなかっただけだが、新聞記者になるのはちょっと難しいかなと子供心に思っていた。
朝日のなかでは割と有名な人で、
篠山さんの担当の江幡さんも知っていたが、
80年代までは皆、父親を知っていた。
まあ、それがいいのか、悪いのか僕が、
女性ばかり撮っていて、婦人科カメラマンだと思われていたが、
「サイゴンの昼下がり」や「ロバート・キャパ最期の日」を書いたとき、
古い父の友人は、やはり新聞記者の子だと、とても喜んでくれた。
そんな父は僕が、芸能やファッション広告写真を撮っている時の
1979年8月2日、コーセー化粧品のキャンペーンで白根山にロケ中、母親から「お父さんがちょっと変」と連絡があり、数日後、飯田橋ある警察病院に行くと表情の変わり果てた父がいた。その後リハビリをして歩くことはでききるようになり、会話もちぐはぐながらできるが、2年後の同じ日8月2日に亡くなった。両国の花火の翌朝だった。

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この「ぼくのアサヒカメラ 」を一度購入すると、最低月2本のアサヒカメラ にまつわる記事が読めます。単体の記事よりお得になると思います。

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