ほぼ還暦レーサーは肉欲に従うことにした
「PEAKSに出るとシクロクロスの準備は万全になるよ」
自転車レース仲間の友人がそう囁いた。その影響か、気持ちは前のめりになっていた。
間もなく還暦。ここ数年成績はおちるばかりだったから「よりしんどいことをしたら、強くなるはず」と私の心も呟いた。
私の自転車レースは毎年10月から始まる。冬の間17年間ほぼ毎週末自転車のレースで過ごしていた。シクロクロスという競技で、オフロードを約40分間走る。今年も体を慣らすつもりで、9月に過酷なPEAKSというイベントに出ることにした。朝5時、奈良県吉野のさらに奥、和歌山との県境に近い上北山村に物好きの自転車乗りが集まった。
約200キロ走る間に6つの大きな峠と無数の小さい峠で合計5000メートル登る。制限時間は12時間、つまり日の出から日没まで、ほとんど休憩せずに12時間走り続けて、やっとゴールできるかどうかという過酷なイベントである。
まず奈良の最南の上北山村の公園を出発して三重県との県境の大台ヶ原を目指す。最初の約20キロだけは川沿いで平坦なところが多い。走りながら同じペースの仲間と声を掛け合う。
「どこから来ましたか」
「東京です」
「私ほぼ地元の生駒です」
「始めてですか」
「いえ、去年は島根の大山で参加しました」
自転車が風を切る音に声がかき消されながらもペダルを回す。
五人ぐらいと先頭交代しながら走ると、空気抵抗が減って効率的に走れる。しかし今の私はついていくだけで必死。周りの選手の助けで川沿いを走り抜けた。このペースでいけば完走できるかもしれない。
いよいよ川沿いから山に入っていく。ここから1時間半ほぼ全て登り。先ほど一緒に走った五人もそれぞれのペースでバラけた。私はもちろん遅い。
そしてほぼ予定通りの時間に頂上に到着した。曇ってきてかなり涼しい。登り尽くしたらこんどはしばしの下り。スピードはでるが、舗装していないみたいな道に石がごろごろしており、パンクして止まっている選手も多かった。
昼過ぎに雨が降り始めた。4つ目の峠を登っている時、突然全身が重くなった。米俵を背負っているようだ。次々に他の選手に追い抜かれたが仕方なく自転車を降りて休んだ。その時腰がものすごく痛いことに気づいた。さらに雨のために体が冷えカッパを着て再開したが、時間内にゴールが怪しくなってきた。
「ジローさん、どうしたの、こんなゆっくり」
「腰がおかしくなってどうも調子が上がらない」
私の苦境をみて、知り合いのライダーがしばらくゆっくり一緒に走ってもらった。
自転車は一人で登るより、似たような脚力の仲間がいる方が快適だ。彼にとってはペースダウンだが優しい人がいるものだ。
「あと何キロ?」
「30キロ。この山を登り返せばあとはほぼ下り」
「制限時間に間に合わないから先に行ってよ」
自転車乗りが「ほぼ下り」というときはほとんど嘘だ。登りもまだかなり残っているのだけれど、この時はこの言葉を信じることにしてまた一人、残り2時間耐えることにした。
この友人ライダーの励ましがあったことでぎりぎり時間内にゴールできた。しかし、終わるとさらに腰痛はひどく、立って歩くのにも苦労した。
翌日も腰痛は治らなかった。「そろそろやめておけ」今思えばこれは私の肉体の叫びだった。
それでもレースシーズンはやって来る。私は腰痛をごまかしながらトレーニングを続けた。
そして10月、レースの季節が始まると最初は長野、金沢と転戦したが成績は振るわなかい。レース仲間からは「二郎、昔のレジェンドはどうした」と言われた。レジェンドという言葉には「昔の」の意味があるので、レジェンドだけで十分なのだよ。「昔のレジェンド」だと「むかしむかし」である。過去に押し込まれてしまったようだ。
かつてはマスターカテゴリーで上位を走っていたこともあった。マスタークラスでも速い方からM1、M2、M3……と区分されているが、一番早いM1を維持していることが誇りだった。ただ去年からはカテゴリーのルールも変わり、これまで40歳以上がマスタークラスだったのが35歳以上となった。35歳は実は一番ピチピチとして、脚力もあり、技術もしっかりしている。還暦間際のライダーは太刀打ちできない。
さらに腰痛をごまかしながらのトレーニングやレースは効率が悪かった。これまでの習慣から気持ちだけは前向きのまま。これまで17年維持してきたプライドがレースとトレーニングを続けさせた。肉体の言う通りにして休んでおけばいいのに。
翌年2月レースシーズンも終わり、私はM1カテゴリーの残留が危ない状態だった。維持するためには全国で150位以内にいなければいけない。私は岡山のレース、そして徳島のレースにエントリーをした。ポイントを稼げる強いライダーは、早々とシーズンを切り上げて、次のロードレースや、マウンテンバイクのレースに移っていくので、シーズン後半のレースはおこぼれでポイントを貰える可能性が高いのだった。
しかし岡山のレースも振るわなかったが、その後最後のレースに向けてトレーニングをしていたときだった。いつもは簡単にこなす斜面で、地面にあった枝を避け用として谷側に落ちて転倒した。
その後から左脚の痛みが生じた。自転車に乗っているときは痛くはない。1分ぐらい立っていると左脚が金床でしめつけられるような痛みがでて、立っていられなくなった。幸い座ると痛みは軽くなる。自転車に乗ると、痛みはやや楽になる。
病院でMRIを撮ると腰椎ヘルニアから来る坐骨神経痛と言われた。
最後のレースは3月中旬の徳島。前日から現地入りしていたが、なんせ歩くのすらつらい。1分すら歩くことが出来なかった。ところが自転車に乗るとやや和らぐ。
無理を押して出走した。途中、自転車を降りて担がなければいけないポイントがあったが、そこは数秒の我慢。いつもはもっと前を走れるのに、ずるずると遅れていった。
レースの40数分を耐えぬいた。わずかなポイントをもらった。そのわずかなポイントで、かろうじて150位以内となり今シーズンも残留ができた。
しかし左脚の神経痛は4月いっぱい続いた。それでも手術をしなくても痛みが出てこないのは幸いだった。痛みが和らぐと次のシーズンに向けたトレーニングを再開しようとした。
ところが脚力も落ち普通にこなせていたトレーニングメニューができない。左脚の違和感もまだあった。もはやしんどいトレーニングをやっても逆効果だよ。そろそろヤンチャはやめなさい、と肉体が話しかけているようだった。
「楽しんで自転車に乗るためには、頑張らないこと」と肉体が言った。
私はやっと肉体の欲求に素直に従うことにした。
もうカテゴリーの維持のために必死になることはやめよう。
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