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カレーライスと冬野梅子『普通の人でいいのに』の「しんどさ」の正体

最近カレーばかり食べている。
先週の水曜日はココイチ、木曜日は珈琲館のカレー、金曜日はとある肉専門店のまかない風カレー、土曜日は飛ばして、日曜日もキーマカレー、週が変わって本日はシュリンプバターカレー。
なにかに取り憑かれたかのように、カレーを食べ続けている。

カレーはいい。大抵のカレーは、想像通りの味がしている。「めちゃくちゃ不味いカレー」は、まず存在しない。大きな裏切りがないから、適度に満足する味が得られる。

ただ、どこで食べても同じ味か、と言われたらそうではない。どんなチェーン店であっても、味の差異が生まれる。中辛なのにやたら辛かったり、ルーのとろみが強かったり、肉の味が滲み出ていたり、一つとして同じ味のカレーはない。

安定的に満足を得たい。ただ変化は欲しい。そういうときには、カレーを食べるのがちょうどいい。

そういえば、自分自身の半端さを「タイ風カレー」にたとえているマンガを最近読んだ。

冬野梅子「普通の人でいいのに」である。

主人公の田中未日子はラジオとお笑いと演劇とインディ音楽と映画が好きな33歳。(あまり好きではない表現だが)あえて言うなら「サブカル女子」だ。

彼女はゴルフと野球観戦が好きないかにも「普通」な同僚の男性から好意を向けられたことによってアイデンティティ不安に陥る。自分は付加価値のない、手近な人間だから好意を向けられたのではないか、と。
そんな彼女の自尊心は文化人が集まるバーで、好きな番組の放送作家と話すことで満たされている。ただそこでも周囲の人間が、自分の愛好するポップカルチャーを通して自己実現をしていることに嫉妬心を抱く。彼女が満たされる瞬間は、ない。

そんなときに、ファミレスのタイ風カレーを食べて、彼女は思うのである。

「私はこのカレーみたい 精一杯頑張ってタイ風の味にした、ちょっとだけ「ぽい」カレー」であると。

結局彼女は一旦は「普通」であることを受け入れる。しかし、それらすべてを投げ出して、どこか遠くへ行こうとする。もっとも、その試みは失敗するのだが。

このマンガはなぜかめちゃくちゃバズった。
自己投影して自分語りをする人、少し離れた距離感から面白がる人、このバズり自体を批評しようとする人。様々な反応を引き起こした。ステレオタイプな「もう若くないサブカル女子」の悲しい喜劇は、SNSの場で話題にしやすいものであったのだろう(個人的には紋切り型の人物描写にやや辟易としたが)。

ただ、それでもこうしてこのマンガについて書いたのは、自分自身もこのマンガを安易に「しんどすぎてしんどい」と表現してしまったからだ。なにがしんどいのか。はっきりさせておきたい。

1つは「タイ風の味にした、ちょっとだけぽい自分」を受け入れられなかった未日子は、どうすれば救われたのかがわからない、というしんどさだ。

Twitterの感想で「彼女のモチベーションが創作に向かえばいいのに」というものがあった。それはそれで、暴力的な発想である。表現をしなければ人が満たされないとしたら、表現に向いていない人間は満たされなさを抱えて生きなければならないのだろうか。

未日子はそもそも表現したい欲求もなかったのだと思う。彼女は、自分をアイデンティファイするものとして、「サブカルチャー」に接しているからである。それは自分と好意を寄せてきた倉田自身のプロフィールを図式化したコマからも想像ができるし、作中のセリフに幾度も固有名詞(一部架空)のものが出てくることからも推察できる。未日子は自分が好きなものを好きと言うことで、自己完結的に満たされていたに違いない。
ただ、彼女はふと、自分が他者からどのような視線で見られているかを意識してしまった。その瞬間に、自分が内側で愛好していたものが、他者に見せるためのアイテムになってしまった。その瞬間に、自分自身を規定していたものたちが「タイ風のちょっとだけ「ぽい」」カレールーになったのである。彼女が救われるためには、ひたすらに自分の愛好するものに没頭し、閉じこもるしかなかったのかもしれない。

このことに気がついたときに、僕は寒気がした。
ポップカルチャーに限らず、自分の外側にある「なにか」によって規定されている人間は、いつでも未日子のようになってしまうからである。

もしもポップカルチャーを偏愛的に愛好する自分が、他者の目線を過剰に意識するようになってしまったとしたら、あるいは今まで感じていなかったような承認欲求を抱いてしまったとしたら、自分が自分でなくなってしまうのではないだろうか。

だからかもしれない。こうやって自分のしんどさの正体を書き記すことで、少しでも正気を保てる気がするのは。

(ボブ)

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