園子温「愛なき森で叫べ」〜愛を込めてクソッタレって言わないと
星野源が新曲で歌ってたじゃん。
クソ喰らえと愛してるが同じ意味になる、って。あと、みんなに愛を込めてクソッタレと言いたいとも言ってたっけ。あれ、すごくカッコいいよね。
え?そんな歌詞あったかって?そうか全部英語だからね。
俺も日本語の歌詞みるまで気が付かなかった。でもさ、みんな言わないじゃん。愛を込めてクソッタレって。
世の中ですげぇヤバいことが起こっても、とりあえず怒るけど、また飽きたら忘れる、みたいな人が多いわけで。
不快なことを考えるのが嫌だから、考えないようにしよう、っていうのもわかるけどさ、ちゃんとクソなものにはクソッタレって言うことが必要じゃん。愛を込めて。ちゃんと言わないとさ、いつの間にか自分の生活がクソな出来事に飲み込まれちゃうかもよ。
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なんて話を、誰かにした気がするけど、よく思い出せない。いや、してないのか?
とにかく、世の中がすごくヤバいことになってる気がするけど、みんな普通に暮らしてるのが怖い。そして、その原因となってる人々が、悪びれもせず、純粋にかつ堂々と悪事を働いているのが怖い。小学生にもわかるような嘘と言い訳。それを、平然と受け入れているのが怖い。なんでセクシーを魅力的って閣議で決定すんの?なんでイジメをした人が罰されず、カレーが罰されるの?なんで公共放送をぶっ壊せとか言う人が議員をやってるの?チープな悪意が蔓延していて、怖い。
そんな2019年の10月に、園子温の新作「愛なきの森で叫べ」を観ていて気がついたことは、フィクションで使い古されたような安っぽい悪意が世の中に溢れている、ということだった。
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「愛なき森で叫べ」は園子温にとって3年ぶりの長編映画であり、代表作である「恋の罪」や「冷たい熱帯魚」と同じく、90年代に実際に発生した事件を下敷きにしたものだとアナウンスされた。のだが、参照元となった監禁殺人事件を彷彿させる要素はまったく入っていない。
(そのためフィルマークスでは『事件と全然違うじゃん!』という的外れな意見が散見される。)
園子温が描いたのは表面的な部分ではなく、人間が一人の人間に騙されていく過程やそこから生まれる狂気、そして悪の陳腐さだった。
物語はこのようになっている。
1995年。愛知県豊川市から上京したシン(満島真之介)は、ジェイ(YOUNG DAIS)とフカミ(長谷川大)に声をかけられ彼らの自主映画制作に参加。知人の妙子(日南響子)と美津子(鎌滝えり)に出演を依頼する。
彼女たちは高校時代、憧れであったクラスメイトが交通事故で急逝するという衝撃的な事件から未だ逃れられずにいた。
引きこもりとなっていた美津子に村田(椎名桔平)から電話がかかってきたのは、世間が銃による連続殺人事件に震撼していたころ。村田は「10年前に借りた50円を返したい」という理由で美津子を呼び出し、巧みな話術とオーバーな愛情表現で彼女の心を奪っていく。
だが、村田は冷酷な天性の詐欺師だった。自身の姉も村田に騙されていた妙子によって彼の本性を知ったシンたちは、村田を主人公にした映画を撮り始める。
物語の中心を為すのは、椎名桔平演じる村田がデタラメで人を騙していく過程だ。ハーバードとマサチューセッツ工科大学卒、ミュージシャン、FBI捜査官、金融マン、映画プロデューサー。
それが村田の肩書、なのだがもちろん全部嘘だ。作中の人物たちは彼に疑問を抱きながらも騙されていく。それは、村田が次々とでまかせとデタラメを作り出し、相手の思考を奪っていくからだ。そして、暴力と開き直りで人々を支配する。
なかでも、作中で繰り返し「純潔」であることが強調されるシンと美津子は、疑ってたはずの村田を信じ込み、残虐な行為に加担する。作中でシンが目を輝かせながら暴力を振るい、その顛末を淡々と日記に書き記す姿が何度も描かれるが、純潔が故の狂気を感じさせるシーンだ。
そして、重ね続けた嘘と暴力は、誰にも罰されることはない。最後まで、安っぽいハリボテの悪は狂気を生み続け、純潔な人々はそれを告発することがないのだ。
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さて、それは、映画のなかだけの話なのだろうか?
その答えはわからないけれども、村田のような安っぽく身勝手な悪意は確かに世の中に存在する。
純潔ぶって、目をそらしてると、いつか洗脳されてたりして。
そう思うと背筋が凍った。
(ボブ)
【今週は第29週『純潔』でした】
〈今日の一本〉
『デス・プルーフ』(2005)
クエンティン・タランティーノ
なんか鬱々とした原稿になったけれども、悪意に対して容赦なく正義の鉄槌を下すのがタランティーノ。やられたら、やり返す。エンターテインメントだからできる、勧善懲悪。