8月6日 社会的な出来事に個人の立場から意味を与え、歴史に遺す
8月6日ですね。
79回目の原爆忌ですね。
年々、ニュース等で原爆が取り上げられる頻度が減っているのを感じます。
一方ではまだ被爆者の方が存命であり、歴史にしてはならないと言う焦燥感を覚えます。
ニュースで取り上げられるとすれば、風化させてはならないという義務感に基づいたもの、という印象を受けています。
前にもここに書いたように思いますが、時間に対しての意識の大切さを、こうした歴史的な出来事の記念日のたびに感じます。
人は、不平等に甘んじなければ生きていけません。ただ、唯一平等にあまねく与えられているものが時間。
確かに、時計は全ての人に平等に時を刻みます。
ただ、時間の流れが人によって違うことは、皆さんも感じていらっしゃるのではないでしょうか。幼い頃に比べて年を重ねた最近は一日があっという間に過ぎる。私にも身に覚えがあります。
人生を生きるとは、時間の流れを自分の身として体感することでもあります。
私の場合、50年と少しの人生を生きています。今、自分の過去を振り返ってみるとあっという間に過ぎ去ってしまった印象を受けます。
それなのに、広島に原爆が落とされてからの79年は、まだ79年しかたってない錯覚を覚えます。
自分の人生に少しの年月を加えただけのある夏の朝、人類史の中でも永遠に刻み込まれる惨禍が起きた。
原爆投下とは、歴史の中の出来事です。だからもっと時間がたったように思えます。ところが、自分の人生に繋がる時間軸の中で実際に起きた出来事なのです。
それなのに、まだ79年しかたっていない錯覚を覚えてしまうのは、人の記憶が時間によって風化してしまう一例なのでしょう。
原爆投下は歴史的な出来事には違いないのですが、まだ存命の被爆者の方がいます。
そして、原爆の悲劇は二度と繰り返されてはなりません。
こうやって人の記憶が風化していくことで、過ちは繰り返されてしまうのでしょう。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
これは広島の原爆死没者慰霊碑に刻まれた言葉です。
風化することによって、また同じ過ちを繰り返してしまうのではないか。
だからこそ風化に抗うように、人々は原爆を報道するのでしょう。語り部の方が活動するのでしょう。
今の世のさまざまな出来事も同じです。日々起きる出来事は、今を生きる私たちにとってありふれた日常なのかもしれません。そして、それらはすぐに忘れ去られていきます。
自分の身に関係の薄い出来事となるとなおさらです。多くの人に影響を与える出来事であっても報道されるできごとはすぐに忘れ去ってしまいます。
先日、大佛次郎氏の「終戦日記」を読みました。終戦に至るまでの日々の日記を詳細に書くことで、歴史の中の出来事にWikipediaや教科書だけでない、市井の人々からの視点として意味を与える。
私がSNSに日記をアップするのも、忘れ去らないためのささやかな試みです。
自分自身の歴史すらあやふやになってしまう、人の記憶のはかなさ。
私も身の回りの事だけでなく、もう少し世界情勢にも目を向けて発信をしたいと思いました。
ありがとうございます。 弊社としても皆様のお役に立てるよう、今後も活動を行っていこうと思います。