街に爆弾が降る時
街に爆弾が降る時
こういう時代、触れないといけないことがあると、悪魔は思うのです。
あらゆる場所が騒がしく、様々な言葉があふれるなかで、なぜか結論は沈黙の時代。なんて、悪魔は思います。
喧騒や騒音、雑音はあるけど、それらはどれも、ありきたりで聞き飽きたCMソングみたいな。そういう時代ではないですか。
情報は流れてくるけれど、それはいつも誰かの都合に合わせて手を加えられた、超加工食品みたいな決まりきった味と言うか……。簡易に口にできるインスタント食品みたいな情報達。
ありのままで味付けされてもいない、むきだしの真実みたいな、そういう情報は今の時代、世間様には流通していないような気がするのです。だってご商売に都合が悪いこともあるでしょうし。悪魔はそんなふうに思います。
そんな時代、悪魔が触れなくてはいけないと思うのは、戦争であったり、ジェノサイドのことです。
人間はいつだって戦争をして、戦争ですらない一方的な殺戮を行う存在です。それは歴史が証明しているし、歴史を知らなくても、今現在もどこかで誰かが誰かを一方的に殺しています。
そんな世界にあって、言葉は無力だ、と言う人がいます。
「戦争や殺戮の前に、言葉は無力だ」
私はこの言葉に対して思うことがあるので、今回、それを文章にしてみようと思いました。
飛んできた銃弾に、落ちてきた爆弾に、言葉で対抗することができるか?
そう問われたならば、それは無理だと答えるしかありません。言葉で銃弾は止まらないし、言葉で爆裂する爆弾を止めることはできない。だけど……。
悪魔はこう考えます。銃を撃たせることを止めることはできるし、爆弾を落とすことを非難して、爆撃を止めることはできるだろうと。
戦争が始まる前、爆撃が始まる前、銃が撃たれる前。あらたまって平和と呼ばれることはないけれど、一方的に殺されない日常があったのなら、それは、言葉によって作られ保たれてきたのではないの?
悪魔はそう考えます。戦争をしていない時間、組織的に誰かを一方的に殺していない時間。それらは当たり前過ぎるからなのか、あまりにも視線が向けられることなく、言及されることがない気がします。
なんでもない日常と呼ばれていた、本当は奇跡のように尊い平和。そのことを、世間様というものは忘れてしまっているのではないかと考えるのです。
言葉によって世界が動き、言葉によって世界が律されていた時。そのことを、本当に大事に考えていたでしょうか?
音楽や物語が、絵やデザインが愛され、食べることだけではない豊かさがあった日常。それらの豊かさが存在することができたのは、言葉によって律され、維持されてきた世界だったからだとは思いませんか?
そのことを、戦争や殺戮の前では、人は忘れてしまうように私は思います。
言葉は銃弾と爆弾の前では無力だ。
まるで、どこにでもある量販店で並んでいるような言葉が繰り返される。仕方ないよと、たくさんの人が口を閉じてうつむいていると私は思います。
世界中どこに行ってもみかける量販店に、売り切れることもなく最終的には廃棄になるほど並んでいる、エブリデイロープライスな既製品みたいな言葉が、みんなにとっての真実でいいのですか?
私はそう思うことがあります。
もしも無力が真実なのだと言うのなら、これが真実なのだと、みんながなぜそう考えるのかを語って、私を納得させてほしいと思います。もしもそれが本当に真実なら、みんながたった一人の私を納得させることは、とても簡単なことなのではないでしょうか? だってみんなの真実なのですもの。私はそう思います。
銃弾が飛んできた時、爆弾が降ってきた時。言葉はもう手遅れなのかもしれない。だけど、もうこれ以上、銃弾を撃たせないように、爆弾を降らせないように、言葉にはまだまだできることがあるのではないですか? 私はそう考えています。
ここは、戦場と殺戮から遠く離れた街です。ここには今、銃弾は飛んでこないし、爆弾も降ってきません。だけど、いま自分が立っている場所は、遠い戦場と殺戮の場まで陸と海とでつながっている。この星のどこかで起き続けている戦争の後方に、繰り返される殺戮の後方に、この街があることを忘れてしまう。みんなは戦争も殺戮も、私とは無関係と思ってしまうのかもしれない。
だけど、私は関係ないよと思っていても、この星はひとつの球体で、本当はなにもかもがつながっている。
無関心は様々なつながりを無視し続ける。それはいつかこの街を、戦場と殺戮の場に連れて行く。そして、昔みんながそうしたように、世界はこの街を見殺しにするのでしょう。私はそんなことを考えます。
ほんのちょっと前、殺戮は世界中から非難されることだった。それがなぜ今、非難の声を押し殺そうとする、不可視でぼんやりとした、なのに強い圧を持つ力を感じるのか? 私は本当に恐ろしいと思います。まるで、世界があの日を境に変わってしまったかのように。
もしも、あの日を境に世界が変わってしまったのなら、再び世界を変えることだってできると、私は夢見たりします。
SNSであふれる言葉が、誰かを殺す力を持つのなら、その力を殺戮を止めることに使うことだってできるはずだよと、私は考えます。
たった一人は、わずかで微力かもしれない。でもそれは無力だということではない。
私はそう考えたから、この文章を書きました。
ほんのすこし、わずかでも、戦争と殺戮に抗う力を、私は注ぎたいと願う。
こんな時代だから、書かなくてはいけないことがある。私そう思った。
ねえ、君はどう思う? 君が思うことを、どこかに書きつけてみてほしい。それは微力かもしれないけれど、決して無力ではないのだから。