作品を作っては壊し、また別の誰かが作る

マルセル・デュシャンがニューヨークアンデパンダン展に「噴水(泉)」を展示しようとした事件以降、ルールや秩序を破壊されたアーティストたちは“デュシャン以降のアート”を作ろうと苦悩してきた。いや、セザンヌに起因するキュビス厶まで遡ればもう少し長いか。あとは写真の登場。テクノロジーの発展の影響も大きいんだろうな。

誰かが秩序やルールを壊したら、また別の誰かが次の秩序やルールを確立しようとし、それがムーブメントや時代となる。

視覚的に美しいものこそがアートであり、自然や人物をいかに正確に美しくキャンバスに転写するかを追い求めてきた"デュシャン以前"。
観たものの思考を深めるものこそがアートであるとして、一瞥しただけではよくわからないものの裏にあるコンセプトと作家の想いに辿り着かせる表現を追い求めてきた"デュシャン以降"。

この、100年ちょっと前から現在までの時代を現代アートと呼び、あらゆるアーティストが新たな秩序やルールをつくろうとムーブメントを興し、乗っかり、様々なアート作品を発表してきた。印象派から始まり、レディ・メイド、コラージュなどのポップアート、ドリッピングやアクション・ペインティングなどの凝った絵画技法(あるいはその絵画技法による制作過程そのものをパフォーマンスアートとしたり)、キャンバスを飛び出したインスタレーション、最新技術を取り入れたメディアアート、そしてAIアートまで。

そんな現代アートという時代の定義として、様々な解釈があるようだが、コンセプチュアルであることが根本にあることは間違いなさそうだ。

コンセプチュアルであるとは、軸となる想いや概念があるということである。

その軸から社会をみたとき、社会に対して問いがあれば、美しく画期的な表現でそれを投げかけ、観たものに気づきを与えたり、思考を深めたりする。この画期的な表現というのがアート作品にあたる。

だとすれば、コンセプトがあって、それを表現している人はみんなアーティストであり、作品はアートだといえる。

映画や漫画、小説、ゲームなんて大アートだし、便器、ファストファッション、100均だってアートである。

ラピッドボールもそうなのではないか?

僕は社会や既存のスポーツに対しての問いを「新たなスポーツをつくる」という表現方法で社会に投げかけた。その中で自分なりの解決策も提示した。そして何よりスポーツは美しい。最高のインスタレーションアートでありパフォーマンスアートであると言える。最高のリレーショナル・アートでもある。

「おれはアーティストだ」と言いたいわけではないが、そこにコンセプトがあり、社会に向けて発信しているのであればそれはアートといって差し支えないのだろうと思う。

ラピッドボールという作品は、自分のコンセプトに忠実に、何年もかけて微調整し、完成させた。

コンセプトの1つに「もう一度戻ってこれる場所になる」というものがある。

怪我や環境の変化、ライフイベントなどを経てスポーツを離れてしまった人がもう一度戻ってこれる場としてラピッドボールは存在したいと思っている。

このコンセプトを形にするために、やっていて楽しいこと。観ていて楽しいこと。応援したくなること。安全であること。熱狂できること。観客や裏方を含め誰一人取り残さないこと。

様々なバックグラウンドを持つ人が一箇所に集まって一個のボールを奪い合い、それを投げたり蹴ったりしているのを観て熱狂するのだから基本的な設計はチョー大事である。

そして、2つ目のコンセプトとして「みんなでつくる」というものがある。

場所や道具や人数が揃わなかった少年時代、グラブをホームベースに見立て、空き缶をファーストベースにし、あの木と木の間を通って柵を越えたらホームランで、小さい子には下から優しく投げる。

その日その場所に集まったみんなが最も楽しめる形のルールをつくり、日が暮れるまで遊んでいたあの頃の気持ちを取り戻してほしいと思っている。遊び心を忘れ、疲れきった現代社会人に。

ラピッドボールは、その空間で最も楽しめる形に再構築されることをコンセプトとしている。つまり、秩序とルールを作った本人が、それを破壊し、新たな秩序とルールをつくることを唆しているのである。

アナザールールカード。唆すどころか自ら率先して破壊しにいっている。


うーん、アートの文脈から見ると、とても矛盾していることをやっている気がする。。。

でもそれが良いと思ったのである。思ったのだから仕方がない。

この作品とその裏にあるコンセプトが、社会や人に対して影響を与えることができるか。人生をかけた実験である。


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