怒る~叱る~諭す
「注意する」のが面倒くさくなった。
注意している自分の心の中をよ~く覗き込んでみると、要するに、「ぼくちゃんの思いどおりに行動してくれない! なんでなんで?? ぼくちゃんの言うとおりに動いてよ。ねぇねぇ。」という、とても幼稚な感情が透けて見える。てか、それしかない。んでそれを、若いときには恫喝に近いような凄み方で「怒り」、30代のときには、「君のためをオモッテ」とかいう偽善的なことばで「叱」ってきた、ように思う。
その人のためを心底おもって、その人に何事かを指摘する人もたくさんいると思う。けれど、僕個人のことを言えば、親身になってアドバイスができるというのは、なかなか身につけたくても一朝一夕に身につくようなものではないと、悟ったのだ。40代後半にして。遅い。
「遅刻する」とか、もうちょっと由々しい問題として「差別的な発言をしてしまう」とかいう学生に対して、「そんなことしたらあかん」ということを、そのまま伝えて、従わせるというのは、なんか違う気がする。それって結局、「こういうことをしたらあかん」とか「この人の前ではあかん」とか、なんかそういうものがその人の中に、一つの情報として蓄積されるだけのような気がする。そして、そういう場面に遭遇したときに、その情報を参照して、そのように振る舞ってみる、というような。「躾」というのは美しいことのようではあるけれど、どうなんでしょうね。同じアウトプットを、別のインプットによって達成することはできないものだろうか。
「気づく」ということは決定的に重要であると思う。本人が、そうするべきである、そうするべきでないと「気づく」。気づくきっかけを作ること。我々ができそうなことはせいぜいそんなところかなと思う。
「先生の(すばらしい)授業の冒頭を聞かんとはけしからんから遅刻するな」「友達の発表の途中で入ってくると、その友達が悲しい思いをするから遅刻するな」みたいな言い方は、結局、そういう言い方でのコントロールなのではないかと思う。むしろ、遅刻をするその人が、そのことに気づくように、「諭す」ということが、本当なのではないだろうか。その人にとって「遅刻をする」ことと「遅刻しないこと」とを考えてみて、自分でどうするかを決めてもらう。
じゃあどうすれば? というのはまだ分からない。マニュアルがあるわけでもない。その都度その都度、考えていくべきことであるように思う。
いろんな人がいて、いろんな人は、いろんなやり方で、気に入らない行動をとるものだという、ごくごく基本的な当たり前のことを、そのまま受け入れて人と対峙するというのは、そうそう簡単なことではない。見捨てるというのもまた違う。
みたいなことを考える。のである。