奪われないもの(#124)
高齢のアジア人の女性が投げキッスを送っている。石造りのベンチに座って、スマホを顔の高さに上げて話している相手を見ながら、もう片方の手で投げっキスの洪水だ。お孫さんと話してるのかもしれない。そういう笑顔だった。この通りは、週に何回かマーケットになる。食べ物を売る屋台や、帽子や服、アクセサリーなどを売る店が出る。今日は春日和で、日差しが暖かく。見下ろすと、人々の間で歩いている鳩だっていつもより上品に見える。ラメが散りばめられたカーディガンをふっくらした身にまとっているマダムのようだ。
久しぶりにこういう、人で賑わっている通りに来た。目的は医者にあって処方箋をもらうだけのことだ。この賑やかな通りで、いくらか距離を置いてホームレスらしき人が床に座っているのを見かけた。お金を恵んでもらうための容器を前に置いてる。合計4人見た。この短い距離で4人は多いな。一人は犬を連れていた。愛犬家は犬の餌代にと、つい小銭を入れてしまう。彼はそれを知っている。中年の女性もいた。女性を見るのは珍しい。本を読んでいた。彼女には少し知性が感じられた。
シドニーの物価・家賃の高騰は大きな問題になって久しい。みんなそれぞれ問題を抱えているのだ。
変な話だが、私は自分がホームレスになって、道端で生活することを想像するのはそれほど難しくない。ホームレスになるのが、悲惨だ・恥ずかしいと思う気持ちが希薄だ。写真学校時代に、ホームレスの人たちがいる通りへロケで出かけて、距離を置いて私と友達はしばらく地面に座って、通りを歩く人たちを眺めた。そして見上げる角度で写真もよく撮った。なんかね、地面に座って歩いている人たちを見上げているのって、「自由」「気楽」「生きる」という気持ちが増幅される。退屈じゃない。
もし、私がホームレスになって、一日中地面に座っているとしたら、きっとスケッチしてるだろうな。スケッチしたのを買ってくれる人いるかな。あるいは文字でスケッチしているかもしれない。今書いているこの文章がそれに近いけれど、いろんな人を観察して、文字に綴って、勝手に想像した会話を書いて、それが小説になる。あるいは、同じホームレスの仲間を取材して話を綴るかもしれない。
「明日は我が身」とよく思う。戦争・自然災害・悲惨なことが自分の身に起こったとき、自分から奪われないものは何かとよく考える。「それは私の頭の中にあることだ」と改めて思う。モノは簡単に奪われちゃう。家族だって奪われる。でも、私の「想像力」「正気(しょうき)」「絵を描くときに見る力」「物語を考える力」「コミュ力(りょく)」「親切心」「口ずさむ歌」「言葉(日本語英語)」「思い出の数々」「ユーモアのセンス」「信仰」「祈り」そういうものは誰も私から奪うことはできない。私が手放さないかぎり。
あなたにとって、誰も奪うことができないものって何だろう。あなたの想像力が私の武器。今日も読んでくれてありがとう。