わたしは配信に救われた
わたしの生活必需品は耳栓である。
100均で買えるような柔らかいものと現場用のシリコンのものをWALKMANと学業成就のお守りと一緒にポーチに入れ、肌身離さず持ち歩いている。自宅にはヘッダーのような射撃用イヤーマフ含め数種類が常備してあり、用途に応じてしっかり使い分けもしている。
耳栓のマニアだとか射撃が趣味だとかそういうワケではない。わたしが耳栓を持ち歩くのはこの世で最も苦手とするものたち、いわば天敵から身を守るためだ。
例えばクラッカー。誕生日おめでとう!パーン!!なんてされたら別の意味で泣く。例えば風船。バルーンアートを正気で見られた記憶がない。他、強い雨、ピストル、栓抜き、打ち上げ花火、雷、厳つめのバイク、クラクション、怒号、叫び声…挙げたらキリがない。
そう、わたしの天敵は音。それも破裂音とか爆発音とか、刺激の強いもの。耳栓を生活必需品とするのは、そういった状況に出くわしたとき即座に耳に詰め周囲の音を極力遮断するため。更にマズい状況の際は耳栓の上から耳を塞いで徹底的に自衛している。
それっぽく言うと「爆音恐怖症」。克服できないまま成人になろうとしている。情けないと自分でも思う。嗤って欲しい。
応援しているものがあると、その「何か」を隔たりなく見たくなるものだと思う。わたしにとっての「何か」は応援しているアイドルたちで、隔たりなく見たくなるものはコンサートであった。
たくさんの愛で満ちた、強く輝く唯一無二の空間。画面越しでしか見たことがないけれど、そのきらめきは毎度ひしと伝わってくる。幸せの輪が会場全体に広がっている。映像を見て、実際にその場にいた人の話を見聞きして、何回溜息を漏らしたことか。
客席に届く音、花を添える特効、湧き上がる歓声。ひとつひとつが公演に欠かせないとっても大切なパーツたち。しかしそれらは全て大きな音を伴う。小さなライブハウスでも耳栓をしないと正気を保てない人間に耐えられるはずがない。
フォークシンガーとか地下アイドルとか、そんな類の人を応援するのだったらまだよかったのだと思う。音の刺激もそこまで強くないから、実際現地に行って声を届けることができる。けれど、わたしが好きになったのは規模の大きな公演をする人たち、あるいはファンのコールが公演のキモとなるような人たち。どう足掻いても現地に行って、同じ時間を共有するのは不可能で。
つまりわたしは、コンサートに行くことができない。
悟ってしまったときは涙が止まらなかった。自分が心の底から憎らしくなった。会場に足を運ぶ資格がない。「コンサートが見たい」という当たり前の願いが叶わない。キラーコンテンツと呼ばれるような最高峰のエンターテインメント。本人が世界一だと声高に言うショー。一番いい顔をする瞬間。触れたくてたまらないのに、触れられない。
心から敬愛している人たちの歌に耳を塞ぐことはしたくなかった。というか、あのような幸せで満ち溢れた空間には1mmだってマイナスな感情を持ち込んではならないと思うから。
いや、コンサートはきっとわたしの恐怖の感情ごときで穢れるヤワな世界ではない。それは承知してる。でも嫌じゃん。そんなの。大好きな人たちが全身全霊をかけて作った世界を恐怖と捉えるなんて冒涜以外の何物でもないじゃない。入場券を握りしめてああ綺麗だね、大好きだよって笑いたいのに、いつだって軍配が上がるのは恐怖の方だ。
果たして自分はファンを名乗ってもいいのか。番組を見たり、音楽を聴いたり、幸せな時間を過ごしていても、頭のどこかには常にそんな想いが回る。辛くなって、笑顔を見て心が暖かくなって、また悲しくなって。うれしい、かなしい、たのしい、つらい、だいすき、こわい、相反する思いが堂々巡りする。応援する気持ちがあればファンだよ、という言葉も、信じたくてもうまく信じられずにいた。
「どう足掻いても同じ時間を共有するのは不可能」なはずだった。
11月上旬。わたしはコンサートの客席にいた。それも、いちばんの特等席に。
わたしを襲ったのは轟音ではなく、尋常じゃないくらいのときめき。いつも楽しそうにコンサートの話をしてくれる友達は、こんなに美しい景色を見ていたのか。こんなに近くに来て、目線を合わせてくれるのか。
画面の中の人々に手を振る、声を上げる、物理的な距離感はいつもと変わらない。むしろ遠いかもしれない。それでも、画面の向こうに見える人たちは今会場に本当にいて、わたしが見ているのと同じ姿をして、同じ声をして、同じ「コンサート」という時間を生きている。電波に乗って飛んでくる。それがどうしようもなく嬉しくなった。同時に涙がとめどなく流れてきて、大好きな人たちの綺麗な顔を二重にする。
泣き笑いを繰り返して3時間はあっという間に過ぎていった。
コンサート当日から1ヵ月経った今も、その時のときめきは変わらず胸の奥で瞬いている。
勿論現地参戦に敵うものはない。自分たちの声を、熱気を、愛を、直接演者に届けられる。こんな素晴らしいことはないだろう。
それでも。
演者と観客という距離で同じ空間、同じ時間を重ねられたこと、パフォーマンスを見て感動できたこと、レポを読んで共感ができたこと、絶対に叶わないと思っていた「コンサートが見たい」という夢が、現地参加できないわたしが見た途方もなく大きな夢が、全部、全部叶った。
配信公演という新たなエンターテインメントは感染症の流行が収まったら廃れていって当然なのかもしれないけれど、配信という形をとったからこそ触れたかったエンタメに触れられた人間がいたことは紛れもない事実が、これを読んだ誰かに届いたらうれしい。
コンサートをやってくれてありがとう。
わたしを救ってくれて、ありがとう。