星を拾う
吾平津ちゃんと脳内会話を繰り広げる。
こんなことは10代の頃まで当たり前のことでした。たぶん、多くの人がそうであるように、わたしも大人になるにつれ想像力が乏しくなり、空想の世界の滞在時間は少なくなっていきました。
小学生の低学年の頃は口をつく言葉が間に合わない勢いで「物語る」ことをしていたものです。家の向かいにある低いブロック塀に腰掛け、両隣りにいる友達が息を潜めて話の続きを待ってくれている、その生温かい感触をふと思い出すことがあります。
いまや、守護神として日夜関わってくれているであろう吾平津ちゃんとでさえよっぽどの能動的な意志をもたねば「会話」をひねり出す(あくまで空想なのですから)ことは出来ません。わたしは薄々分かってはいましたが霊的センスに乏しいのです。霊的センスは乏しいですが、そういうものには憧れもするし、せめて霊性は高めたいと思っています。
小学生の頃の自分が見たら「なんてこと!」と呆れてしまうかもしれませんが、物語が自分に降りてくることはなくなり、やがてわたしは自分が夢見ていた小説家になる、ということも今回の人生ではもういいかな、と思うに至りました。それどころか小説自体も滅多に読まなくなりました。
それよりも今の自分にダイレクトに干渉してくる言葉に耳を傾けることが面白くなり、どこまでいっても伸びしろだらけな自分の未完成性を味わう時間が増える一方になりました。
子供時代のわたしが夢を果たさない今のわたしをもし責めることがあったとしたら、いまのわたしの言い分はこうです。
「だってね、もうこの世にはわたしが書かなくても十分に本も物語もあふれているのよ。わたしが扱って損なってしまうかもしれない言葉を、よくもまぁ、と言えるほどに活かしきる人たちが既に用意されているの。それを見つけて味わうだけで一生は終わっちゃうくらい。星は星の輝きのまま、地上に降りしきっている。わたしはそれを拾い愛でることがいまは好きよ」
艶々の黒髪のマッシュルームヘアに囲まれた丸顔の彼女は口を尖らせてプイ!とそっぽ向くかもしれません。地団駄すら踏むかも。「そんなの、聞いてない!そんな人生、聞いてない!」と。
ここからはおとなの余裕です。
「予想できないのが人生なのよ…」
慈愛をこめた眼差しで伏し目がちに言いましょうか。
「あたしは、認めないんだからね!」
チビのわたしは真っ赤に怒って言います。
「あなたも、いつか分かるわ」
遠くを、そうですね、黒潮高鳴る日南海岸あたりへと目を向けて微笑みながら言うのです。
納得がいかない様子で目に涙を浮かべた彼女の手をとり、梅ヶ浜(実家近くの浜。通称「自殺の名所」!全国からサーファーが波を求めてやってくるYO)まで歩いてみます。海風に当たれば気持ちも落ち着くことでしょう。ここまでくれば、おとなの余裕の勝利です。
「わたしは小説家にならないの?」
「きっと、ならない。なる必要がなくなるの」
「わたしのなかの物語はどうなるの?」
「それは文字にはならないかもしれないけれど、世の中は文字にならないところのほうがうーんと大きいのよ」
「わたし、小説家になってえらくなるんだと思ってた」
「えらくなんかならない。えらい、というものはないのよ。素晴らしい、というものはあるけれど」
「つまんない。そんなの、つまんない!」
「どうかな。そこから見たらつまらないものも、近くで見たら……、そうね。それはあなた自身がこれから味わうことだから。わたしもこれから味わうこと、たくさんあるのよ」
「あたしはえらくなりたいの!あとあそこのフランクフルト、食べたい」
おっとと、買い食いを母から固く禁じられている彼女がちゃっかりおねだりしてきました。おとなの余裕ですので、ふたつ返事で買ってあげましょう。
国道沿いの今はなきフランクフルト屋さんでケチャップ多め、カラシ抜きのを二本買い、ハフハフ言いながらケチャップで服を汚さないように注意しいしい(何しろ母にバレたら大変です)かぶりつきます。
食べ終えたら、砂浜に降りて星の拾いかたを彼女に教えてあげることに致しましょう。とっておきの、星の見つけかたと拾いかた。
…いつの間にか吾平津ちゃんとではなくて小さい頃の自分との脳内会話となってしまいました。吾平津ちゃんはあまり話すの得意じゃないみたい。
でも基本にこにこ笑っていそうなところが、吾平津ちゃんのいいところ。(←完全に妄想)