ホドロフスキーについて感じること(追記するかも)

それにしてもホドロフスキーのなかにある確信はどこからやってきたのだろう。


それは知っているひと、純粋なる権威のエネルギー。イエスの格に近いもののように見える。


ここで言う「権威」とはひとがそこに口を挟む余地を持たないまでの法則とも言うべき働きのことだ。正しく発動される権威はそれだけで預言の成就を約束する(と、わたしはかつてカトリック修道院のシスターから教えられた)。つまり、イエスのような、もしくは彼のように神という法則に直属しているひとびとはその神への確信ゆえに言動に権威が宿るのだ。

そういうものを、ホドロフスキーからは感じる。

彼がセッションで施す色々なわざは、いずれもその人の欠けを補うための、無意識を顕在の次元に引っ張り出し「いま、果たされなかったこれをやりますよ、いいですね、いま、これは成就するのですよ」という直接的な宣言だ。

彼に(なぜか宿っている)この権威があればこそ、セッション…というかアートと言うべきなのか、癒しのアプローチは成就する。疑いのないところに迷いは生じない。突飛なアクションでもクライアント達は素直に受け入れそのなかに身を投じ、結果、自己を取り返してくる。


こころの座に関わるアプローチをするときに一番障害となるのは、実は照れであることは意識においておいたほうがいいことかもしれない。

照れがあることにより、まず当事者がそこに正しくコミットできない。照れは疑いのより厄介なあらわれだからだ。

そしてこれが知識(情報)にまみれ頭でっかちになった私たち現代人の足枷でもある。言い訳が何重にも必要になり、道のりは曲がりくねり遠のくばかりとなる。

スピリチュアル、という言葉を素直に扱えなくなったのもそうした現代人の意識の混濁の故なのだ。ふわスピ、とか言っちゃうことあるでしょう。それはスピリチュアルがふわふわしているのではなく、そこにコミットしている表現者がたまたまふわふわしていて、受け取る側もふわふわしているからそうなっていることなのだ。スピリチュアル自体には関係のないことなのだ、本来は。

ホドロフスキーや、彼のアートを受ける人々はこうした照れを自分達の人生に紛れこませない。そうした無駄な時間は使わない。そこがよりパワフルで尊さを感じさせてくれる。ひとがこの世で着けてしまいがちな仮面を着けない、という潔さ。自分の苦しみを打ち明ける彼らにしろ、それを世界にシェアしている時点で仮面を外す勇気の体現なのだ。彼らが映画のなかでその姿を見せてくれることがどれだけのひとに共振しエンパワメントすることか、彼らに伝わっていたらいいなと思わずにはいられない。







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