意識の幾何学
誰かが誰かの物言いにかこつけて半ば否定しマウントをとるように自説を唱える…ということはSNSが日常に食い込んだ生活を送るようになってから日になんども目にするシーン。
…と、いうことに対する何とも言えないモヤりとした心情をさらにSNS上で吐露することも最早目新しいものではなくなった。
要するに「人のふり見て我がふり直せ」というところで止めるべきことなのだが、いや、この場合、誰に対しての釈明としての「べき」かしら?
起き抜けに開いたSNSでふと、不穏なエネルギーのやり取りが目に入ってきた。
私は思わずそのやり取りのツリーを開いて展開を追っていったのだった。
思ったほどの焼け野原にはなってないことを確認してはー…、と息をついた。
そして、これが私にどう作用しているのかを内側にもぐって見届けねば、と思った。
いま目にして他人事ながらもその「人のふり」が不快だったのはこの私だ。
第三者であるのにそこにある事象にモヤっ、イラっとしたのはこの私だ。
そこに流れている感情エネルギーにある意味同調してしまっている。
私のなかにそれらと同質のものがなければ、そうした事象(誰かが誰かの発信に物言いをつける)に反応することはないのだから。
不快さはヘビの躍動の管轄下にある。
ヘビはおそらくヘビ自身も眉間に皺を寄せながら「あらあら、アタシの出番ね」と鎌首をもたげる。
甘いのがお好きだが、酸いものにも自動的に召喚されるのがヘビである。
私は鎌首をもたげ赤い舌をチロチロと出し入れしだしたヘビのとなりにそっと肩を並べてことの成り行きを見守る。
そこでは、内省内観の達者なもの同士の意外にも大人でエレガントな応酬のラリーが二、三度交わされたところでエゴの業火は鎮火され終息し、最後にはシロツメクサや菫の花が咲く上を春の風が撫でてゆくような爽やかさが残っていた。
SNSの、そしてそこが人の目に触れる場所であること、各々が耳目を集める一定の役割にある人物であることの自負、そうしたことが機能して、世間のなかに求めてもいない不協和音を出すまいという両者のリテラシー機能がそれぞれのエゴを御したことによる、それは何かの武術の試合を見たかのような見事なやり取りだった。
これはなかなかにエレガントなものを見せてもらったな。
既に鎮火され吸うべきエネルギーも霧散した現場をつまらなさそうに撤収してゆくヘビを見送りつつ、私はそのシロツメクサの野原にとどまって寝っ転がって空を見上げてみる。
これは達人同士だからこその、今はまだそうそうSNS上では見られないやり取りであった。
周囲のどれだけの者がハラハラ(もしくはドキドキ?ワクワク?)したことだろう。
台風の目が生まれそうなところを両者ともに陰陽の渦の龍をそっとなだめ、絡まりをほどき早めに引き離して自分の領域に収めていった。
どちらが勝つでもなく。
あとに残されたもの(私)はその幻の戦場に寝っ転がってやがて先に手を出した側の心の内を見せてもらおうと蝶になる。
ああ…。
その者も、それはやむに止まれぬ(老婆心と捉えられるのを重々承知のうえで)思いから釘を刺すべきと思ったのだろう。その相手に、というよりもそこから拡がり自分の裾野にも関連しているクラスター達へのメッセージ・警鐘として。
自分の思いが誤解されるかもしれないという恐れももちろん抱きながら。
もとより、心理においての繊細さはピカイチな人同士のやり取りである。
ひとの心理に寄り添うことを主眼においた活動をする両者である。
ひとの心理をものする者は、同時に己の心理をものしている。
将棋棋士さながらに何手も先を読んでの語りかけであったのだろう。
そうだ、そのやり取りは武術のようであり将棋や囲碁の名人戦のそれのようでもなかったか。
SNS上にふたりの置いていったエネルギーから
「精進し、内観し、自分に立っていこう」
という自立した精神同士のひとときの交わりを感じた。
壮大な曼荼羅の一隅に描き出された、意識の幾何学。
たまたま目にした、観察者としての私も含めた意識の幾何学だ。
今日という日をはじめようとしていた矢先に立ち会ったこの事象は、その前に描こうとしていたこととのあいだに差し込まれ、これを経てまた私は当初辿ろうとした道へとルートを戻そうとする。
けれどそれはもとのルートに戻るということはないだろう。
それに触れ、立ち会ったあと、私のなかの幾何学はその分だけ頂点を増やしてカタチを変えている。
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