吾平津ちゃんとアゲ太郎。美味しいトンカツ揚がりました
さて。
吾平津ちゃん(吾平津媛/あひらつひめ。記紀において神武天皇の最初の奥さんであったとされる日南市油津・乙姫神社の祭神。わたしの産土様)に向けて教育的指導?をしてみようなどと思いついたわたしですが一体神霊のレベルの存在にこちらの意見を届けることなど出来るのでしょうか。
すべては空想、妄想、独りよがりの域から出ないのかもしれません。
ただ、自分の人生に生じた出来事のみがその答え合わせを可能にしてくれると思うのです。
そして出来事というのはわたしのボディの外側で発生した事象を指すだけでなく、その内側、心や頭の中で味わい認めたものも含まれて然るべきでしょう。
突然ですが、わたしは記憶力が異様に低いです。
三つ年上の兄と比べてもわたしが記憶に有する幼児期エピソードは極端に少なく、母や兄の語る記憶なくしてはわたしの幼少期など本当にあったのかしら、と自身の存在を自ら疑いたくなるものがあります。
そんなわたしが今日ようやくたぐり寄せた記憶は
『とんかつDJアゲ太郎』のことをわたしはいつ知ったのか?
…というものでした(なんか、スミマセン。)
つい昨日、Twitterのタイムラインでアゲ太郎関連の呟きを目にして『あ、わたしこれ知ってるヤツ』と思ったのですが、ハテ、このファンキーな漫画の存在をわたしは何故知っていたのだろう?
さっぱり思い出せない。
自分で読んだ、という感じは全然しない。
ただ「フロアもトンカツもアゲる!」というイカした決め台詞は知っている。
いつ、どこで、誰から吹き込まれたのか。
ミステリーです。
おそらくここ数年内のことの筈だけれど…
わたしは一年以上前のことになるともうそれが何年の何月のことであったのか、前後関係はおろか縦横の関係も、それが夢か現実か、自分のことかひとから聞いた話なのかすら怪しくなるほど、つまりシナプス達の連携も住み分けもぐだぐだなのでありました。ほう、れん、そう!しっかりやって!
頼りない同僚(脳内シナプス)たちにウンザリしつつも『ここはひとつ、思い出してやろうではないか』と思ったのは、哲学対話に参加するうちに他の方々の、思考の回転を止めないで辛抱強くたぐり続ける姿に影響を受けたからでしょう。
どこだったっけ、誰だったっけ、どこ、誰、どこ………?
結果、さきほど「あ」と思い出せました。
ああ、ハイハイ、某お店に通っていたときの、その場に居合わせた方のお話しのなかに出てきたのがアゲ太郎で、そのときひとしきりこの漫画のことで場が盛り上がったんでした。(ものすごく他愛もない)
で、なんの話でしたっけ。(もう忘れている)
そうそう、吾平津ちゃん。
わたしと産土様の往信のことです。
生まれたときから守護の座にいてくれた、と知ってからは、彼女を想えばわたしは容易に彼女の物語を想像出来てしまいます。それは勿論、自分の投影に過ぎないのですが、この世にある物語という物語がそうした投影をきっかけにして紡がれている筈で、これが歴史的事実だ!などと世に押し付けたりしない限りにおいて、それは「有効」としても良いのではないでしょうか。
なんとかたぐり寄せたアゲ太郎の記憶が純然たる事実かどうかは分かりません。
それと同じく、吾平津媛を想うときにわたしの脳内になんの軋轢もなく去来するイメージも事実かどうかは永遠に分かりません。
事実かどうかはどうでもよい。ただそれがわたしにとって有効であるかどうか。
産土神に自己を投影する。それは神話のキャラクターに原型を見出すアプローチと同じなのでしょう。
読み解き、照らし合わせ、味わったのちに味変!そう、味変が出来るのです。
別の料理に作り変えちゃう。
だってこれはわたしの人生。
いまは、わたしが生きている番なのです。
時間の流れを“未来から流れてきて過去へと送る”もの、という見方があるとすれば、いまわたしが美味しく味変したこのトンカツを(トンカツ…味変しにくい…)遠くて近い産土の神に送り届けることも可能かもしれません。愛情たっぷり、シャキシャキの千切りキャベツだって付けちゃうわ。
フロアもトンカツもアゲる勢いで。
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