ホドロフスキー体験

愛の具現化。

まさしくそうとしか言えない。


『ホドロフスキーのサイコマジック』を吉祥寺アップリンクで観た。わたしにとって初のホドロフスキー体験だ。

知ることが出来て良かった。そしてそれは今でなければいけなかったのだろう。

今より早過ぎても遅過ぎてもいけない。

わたしにとってホドロフスキーのサイコマジックはそういうものだ。星の運行はまたしても的確なタイミングでわたしにギフトをもたらす。

自分の感性の変革を辿ってみれば準備が出来てからギフトが到来することが増えてきたように思える。はじめは違った。自ら穴に落ちに行き、落ちたことに気付くのにしばらくかかり、ようやく自覚してから穴をよじ登るための梯子を探す、ということの繰り返しだった。

ホドロフスキー体験はそれとはだいぶ様子が違う。

驚くほどの直接的なわざを使ってひとの生を癒す、という彼のアートについて今までわたしが知らなかった、ということが逆に不思議なほどだった。彼についての知識がわたしにとって正しいルートから届いた、ということもこの体験が祝福であることを意味している。別ルートからだと今わたしが感じているようにホドロフスキーの表現を自分のなかにおさめることが出来なかっただろうから。

『ホドロフスキーのサイコマジック』作品中のどのひとの生も引き込まれ、味わいが薄まることはない。ひとりびとり、この世に自分がいるということの手ざわりを確かに取り戻そうとしている。そしてそれには愛が不可欠だということがホドロフスキーのアプローチで示されている。ものすごく、直接的に。

産まれなおし、甘やかされ、肌のあたたかみに包み込まれ、または怒るだけ怒りを発散し、閉じ込めた感情を解放させるべくハートを切り開くアクションがさまざまに施され……


“私”というものは“動き”なのだとする瞑想がある。

動きが自分であるとき、私たちはよりこの世に接続し“私”を感じることができる。私たちは接続していないとき、不安になる。エゴは私を主張しても私を実感はさせてくれない。方向性を間違っているのだ。それは“私”の自家中毒にこそなれ、このからだごとリンクした全体性としての私には至らない。生きて体を帯同させている私たちはここで感じる手ざわりごと生きるということをしていなくては生が薄まるのだ。

作品のなかでホドロフスキーのセッションを受けたひとびとがインタビューに応えている。その、BeforeとAfterを観てほしい。確実に目に宿るものが変わっている。何よりそれに驚いた。こんなに鮮やかに変わることがあるものだろうか、と空恐ろしくなるほどだ。余程幸運な人たちなのだろうか?と勘ぐるほどに、“辿るべきだったルート”を体験した彼らは今やしっかりと彼ら自身のからだに受肉し目に光を宿し、自立している。彼らはおそらくもう外側に問わない。問いが出てきたら自身に問い、行動するのだろう。


うろ覚えだが、映画のなかで80代で鬱に苦しむ女性を癒すホドロフスキーが「あなたの苦しみはわたしの苦しみだ。あなたが鬱ならわたしも鬱だ」と言い、世界のすべての存在はあなたの一部だ、すべては繋がっている、というようなことを口にしていた。女性は自身の人生に自己が宿ってなかったことをしきりに悔い、世界を呪い、そんな自分を何より呪っていた。

彼女はわたしだ、と思った。

彼女として生まれ、今や死の目前まで生きてきたわたしだ。愛をテーマに生まれてきたのにどこかでそれを誤魔化してチャンスを見送り続けてしまった、それはわたしが辿るかもしれない姿だ。

ホドロフスキーは彼女には樹齢300年の大木に21日間水を捧げるワークを施す。水は彼女から溢れる愛の象徴だろう。おそらく、彼女はそれが自らのうちに迸り、活路を探しあぐねていた愛の源泉の具象であることを間もなく悟るだろう。なんの変哲もないペットボトルに入れた水。しかしそれは確かにこの世に降り注がれなければならなかった。彼女はそれが地に染み入ることを見届けなければならなかった。


さあ、いまやマジックは施された。

それは鑑賞者もかかってしまうマジックだ。

わたし達は愛を「する」生き物だ。


これからの生において、そうあらんことを。






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