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ヨルヲカサネ①

あらすじ
 さきはある日、公園で猫に出会う。不幸が続いて塞ぎ込んでいた彼女の心に寄り添ってくれる猫。さきは雨の日に出会ったその猫にアメと名付け、家族として迎える。
 そうして穏やかな日々を過ごす折り、招かれざる客がやってきた。その女は、さきの父の愛人だという。まさか父がと混乱するさきは女を追い返し、父の日記を読む。そこには、問題を抱えた夫婦の苦悩が綴られていた。
 やむを得ない事情と、それでも受け入れ難い真実。さきは揺れながらも少しずつその事実を飲み込んでいく。
 そして、さきとアメと愛人のキミコの奇妙な関係は始まった。



 あたしには、堅く堅く蓋をして、一生誰にも見せずに墓の中に持っていきたい感情がある。


 小野美幸、しあわせと書いてさきと読む。 
 四年前まで、その名の通りしあわせな人生を送っていた。仕事、友だち、結婚を考える恋人も。それ以上なにも入らない、というほどに満たされていた。
    ただ、想定外だったのは、終わりは結構突然やってくるものだということ。あまりにもあっけなく、その幸せは消えていった。

「なんなの、いったい…」

    降ってきた雨に顔を顰めて、そのまま空を睨み上げる。朝、寝坊して慌てて出てきて。ふと、折り畳み傘が目に入ってきたけど、まぁ大丈夫だろうと見送った。

「ちょっと手を伸ばしてカバンに入れるのなんて、数秒でしょ。なにやってんのよ、ほんと」

    空に、過去の自分に当たってみても状況はなにも変わらない。こんな風に小さな小さなついてないがかなり積み重なってしまっている。現在の自分は、ボロ雑巾とまではいかないが使い古されたタオルのようだ。

「雑巾行き直前の、」

    ため息混じりの自虐は、笑い飛ばしてもらえずに空を切る。こんなつもりじゃなかった。思ってもみなかった現状は、絶えずわたしを打ちのめす。たったひとつの綻びは、どんどん広がって修復できずに砕けた。

「元に戻らないモノにすがるなんて、バカらしい」

 口に出すのは簡単で。そうは切り捨てられない感情だけが、難しい。どこで間違ったのか、なにがいけなかったのか、全て消えてしまった今、考えても考えても残るのは空しさだけ。

「よし」

 意を決して、とっくに誰もいなくなった社内から小走りで抜け出す。どうせもう帰るだけ、いつまでもここでうだうだしていられない。タイミングなんて、すぐにどこかへいってしまうんだから。手を顔にかざして、せめて目元だけでも守る。あまり好きではない雨音に急かされる。足元はもう、ぐちゃぐちゃだ。みじめ、そう声には出さず呟いて、ひたすら朝来た道を辿る。
 全てから見放されたような気がして、なにも見えない暗闇を歩いているような感覚で、そんなの、まるで悲劇のヒロインみたい。

「なにそれ、ガラじゃない」

 雨に消える言葉に、ちょっとだけ救われる。できればネガティブも流してくれと願う。振り払うようにむりやり顔を上げると、誰もいない公園が目に入る。雨を凌げるのはありがたい、そう思って駆け込んだ軒下のベンチには、小さな先客がいた。

「にゃあ」

 威嚇するでもなくひと鳴きすると、隣に座ったわたしにぴたりと寄り添った。甘えるようにすり寄ったり、膝に乗ったりするわけでもなく、だけど温もりを感じる距離感でそこに座る猫。
 久しぶりに感じる、命の温もり。また少し、救われた気がした。
    さっきまでの恨み節が、完全に消えたわけじゃない。でも、大抵のことは手放せるんだ。それは、オトナの強みなのかもしれない。

「君はどこかの子?野良さんかな…」

    視線を向けると、綺麗な目と出会う。生命力に溢れる力強いそれは、まるで信頼する誰かに優しく背中を押されたり、肩に手をかけられたりするような、そんな安心感があった。
 話を聞こうかと、促されているみたい。どうにもできない感情をもて余したあの思春期の、私たちは味方だからねと言い含める、優しい両親の影と重なる。
 急に体調を崩した母、心配で気落ちする父。そして、様子のおかしくなった彼と、それら全部が一度にきて、フリーズしたわたし。
 ぽつりぽつりと、これは独り言だと自分に言い聞かせながら、猫を相手にあまりにも大きな喪失を語る。

「すごく、好きな人がいたの。初めてだった、これが最後の恋だと思ってた。でも、ある日、突然いなくなった」

 次々と溢れてくる当時の感情を、ひとつ残らず、もう戻ってくるなと願いを込めて吐き出していく。
 別れは、三度目の春だった。仕事で大きな失敗をして、転職を考えていると。疲れきった顔でそう言った彼は、しばらくそっとしておいてほしいと望んだ。
 確かに、自分にも覚えはある。もう嫌だと気落ちする日は、数えきれないほどあった。だから、理解できる。責任が重くのしかかるのは、自分が社会で成長してきている証。お互いに支え合うだけじゃ、どうにも太刀打ちできないことは、確かにあって。そういうときは、一人で立ち向かわなくちゃいけない。そうやって分かったふりで、理解のある彼女のふりで、今思うとあのときから彼の気持ちはもう、わたしには一ミリもなかったんだろう。
 その“そっとしておいて”を信じたわたしは、心配しながらも、期限を一ヶ月と決めて、様子を見ることにした。
    今でも、なにがいけなかったのか分からない。彼は、消えた。部屋は引き払われ、仕事も辞めたようだった。周りからすっかり消えてしまった彼の気配に、わたしは絶望した。
 なんで、どうしてと毎日考えて、後悔と戻らない日々への焦燥。こんなに簡単に切れてしまう縁だったのか、いやそうじゃないはずだ。繰り返す自問自答に疲れて。きっと、そのうち落ち着いた彼から連絡がくる、そう信じた。信じて、いたかった。そうしないと、自分を保てなかったから。

「半年くらい経ったころ、彼を見かけた。隣に並ぶ女の人と談笑しながら、ベビーカーを押してた」

 あのときの感情は、思い出したくもない。追いかけて、叫んで、罵って、ひっぱたいて、その衝動を、泣き喚くのを抑えるのに必死で。とにかく、目が焼けるように熱かったのを覚えている。
 結局わたしは、その場から一歩も動けなかった。もしかしたら、なにか行動していれば、少しはすっきりしていたかもしれない。
 泣くこともできずに、ただただ呪詛の言葉を繰り返した。こんなに醜い感情が自分にあったのかと驚くほどに、恨んだ。毎日毎日、鏡を見るのが嫌になるほど、ひどく歪んだ顔をしていた。

「もう昔のことだけど、今でもたまに思い出して、吐きそうになる」

 いっそ吐いて、このざらついた気持ちを出してしまいたい。泣いて喚いて、あの日の自分を慰めてあげたい。なにがあっても、大丈夫だと言ってくれていた人たちは、もういない。
 母は、体調が戻らないまま逝ってしまった。父も、ずいぶん小さく弱くなってまるで後を追うように、また、逝ってしまった。

「いいよ」

 どこからか聞こえた声は、やけにさらさらと流れていった。幻聴かと思うほどに、かすかに、まるで耳ではなく心に届いたみたいに。そうしてわなしは、誰にも気づかれることなく涙を流していた。痛くて苦しい心は、ずっと抱えてはおけない。そっと手放すんだ、これは持っていちゃいけないものだから。この未練は、いつか自分を引っ張っていってしまうから。とりかえしのつかない場所に。
 声を出して、子どもみたいに泣いた。雨は、うつうつと世界を濡らしている。わたしは、まだ踏みとどまれる。聞こえた声を頼りに吐き出した毒のような呪いは、きっとあの声が持っていってくれる。隣の温もりに手を伸ばすと、そっと頭を傾けてくれた。ちょっと躊躇って触れると、猫とわたしの間にあった距離はなくなって。

「うちにくる?」
「にゃあ」

 返事のようなそれは、一筋の光だった。濁った空と、世界を終わらせたような雨と、伸ばした手を取ってくれた、凛と直立する命。

「…アメ」
「うにゃあん」

 まさか、自分がなにかに名前を与えるとは、思っていなかった。それでも受け入れられた初めてのそれは、気に入ってもらえたようでほっとする。纏わりつくようなじとりとした空気を、その一声が裂いた。
 生命力。改めて自分を見ろと主張する強い生き物の強い力に、背筋が引っ張られる。
 失ったものは大きくて、空いた穴にはなにも入れられない。代わりなんて、入れちゃいけない、塞いでもいけない。でも、抱えていくなんて、大きなことも言えなくて。そんなのないよってふりはできないけど、向き合えないときは見なくていいんじゃないかなって思う。誰かのために生きなくったってさ、雲間に見える空は青いんだから。それはきっと、わたしが死ぬまで変わらないから。

「帰ろうか」

 理解したとでも言うように、隣を歩いたりたまに後ろに回ったりしながら、アメはわたしについてきたくれた。いまだ小雨がパラつく中、帰路を歩く。いつもの足取りとは、ちょっと、いや確実に違う。猫と、わたし。それとなんだか、雨まで引き連れているみたい。
    止まない雨にときどきのまれそうになりながら、掴んだ光を離さないように。まるで、物語の主人公みたいな気持ちでわたしは歩いていた。


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