自然のコードと僕らの傲慢
大学の頃、アルゴリズミックデザインを知って、自然のカタチが好きになった。顕微鏡で覗ける細胞レベルの営みから、光の届かない望遠鏡の、宇宙の果てまで。自然は似たようなパターンの形状や模様で溢れている。
たとえば葉や木の分かれかた、蝶の羽の広がり、カタツムリや貝殻の渦、シマウマや動物たちの柄、ロマネスコの再帰構造。周りの見慣れた自然の、複雑そうに見えるカタチも、実は単純な数式で導き出せてしまう。
人工物にも。ピラミッド、数寄屋づくり、五重塔といった構造体から、ヒロシゲの絵(波ザパーンのやつ)、テキスタイルパターンなど、自然と同じ数式や、黄金比・大和比といった比率を取り入れている。どこまでが自然で、どこからが人工物か、あんまり気にせずとらえてみると楽しい。どれも因果律に導かれるまま。注意深く観察して、もっと自然を知りたい。
人間も自然のうちなのに、いつも分断されているようだ。それぞれの信じて疑わない傲慢を、そのまま向かい合わせて、認識を揃えようと努めたり、つい戦わせたりする。宗教レベルでも、国レベルでも、会社や学校レベルでも、個人のレベルでも。
どんないがみ合っても、お互いがお互いにそうなっている由縁があるもんね。考えは違っても、理解しあえないことはない。泰然自若、みたいな言葉が思い浮かんだ。みんな自然の一部なんだ。いがみ合ってもしょうがない。落ち着いて、おたがいさまって言えたらね。
もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。